FC2ブログ

●2020年12月某日/廃校、鉱山、冬を迎える二本の林道。

2012ishikawatop.jpg
雪の気配が近付くと積雪地帯の林道の多くは冬期閉鎖となる。
2020年末、冬季閉鎖を控えた二本のダート林道を走った。
それぞれの林道奥地には廃校となった分校と廃鉱となった鉱山が待ち受けているはず。
石川県、福井県、それぞれの深い山中に伸びる林道と二つの物件を紹介。


photo:Canon eos7d 15-85mm

いつものようにgooglemap衛星写真で各地上空を彷徨ってると深い山中の森に怪しい建物を見つけたのは今年の春先。民家にしては規模が大きい気がしたので調べると屋根は廃校となった分校木造校舎のものだということがわかった。
とはいえ場所は雪深い石川県、雪解けの林道開放を待ち訪問を予定していたが社会情勢の影響で長らく延期となっていた。

2011ishikawa01.jpg
photo:googlemap衛星写真より

2020年の冬も間近。来週辺りは北陸は初雪に見舞われるはず、本日あたりが今年最後のチャンス。前夜まで降り続いた大雨は明け方には止んだ。山裾には霧が張り付いているが好天に見舞われることだろう。

kii01.jpg
【石川県/大杉谷林道】

石川県奥地。白山山系から流れ出す急峻な流れをいくつもの砂防ダムがせき止めている。
そんな川沿いの道から山中へ分岐する大杉谷林道へ入った。

石川県大杉谷林道2011ishikawa02.jpg
石川県大杉谷林道2011ishikawa06.jpg
石川県大杉谷林道2011ishikawa03.jpg

途中視界が開けたので泥まみれとなった車から降りる。
砂防ダム背後の崖に張り付く狭い道はこの先通過する林道。それにしても凄い場所を通るものだ。車ごと滝壺に転落しないように気をつけねば。



ぬかるんだ森のダート林道を走り続け目的地付近に到着、空撮写真と比較しながら場所への精度を上げていく。ある程度絞り込み見渡すも視界に入るのは森と山だけ。この林道自体がカーナビにも表示されず電波状態も悪いため、かなり近付いていると思われるが正確な廃校の位置は不明だ。

すると森の奥に重機が見えた。作業の気配もするので情報収集すべく現場へと歩く。廃校解体工事なのかとの考えが頭をよぎるが、おそらく杉の伐採作業だろうとさほど心配せず現場へ到着。

2011ishikawa04.jpg

作業員に廃校の場所を訪ねると指さされた先、森の中には何らかの建物の基礎部分が見える。その光景で一瞬で理解した。分校の木造校舎は建物ごと解体されてしまったのだ。



斜面を下り校舎があったはずの土台に立つ。山積みにされた板材、運び出された家具、崩れた建物の生々しいニオイが漂う現場。廃校の建物はまるで昨日、今日消滅したように見える。様子から見て少なくとも半月前には廃校は完全な姿で残されていたことだろう。わずかの差で逃してしまった。

作業員へお礼を言って現場を後にした。残念な結果となってしまったが観光地巡りではない、棄てられた空間を目指す徘徊のためよくあること。仕方が無い・・・。



2011ishikawa07.jpg


kii022.jpg
【福井県/面谷林道】

気を取り直し県境を越え福井県山中の林道を目指す。林道があるのは九頭竜ダム湖の湖畔。ここに至るダム湖左岸県道も2020年の開放もまもなく終了、数日後に迫った冬期閉鎖の準備に追われていた。ダム湖へ注ぐ面谷川、その流れに沿って林道が奥へと分岐している。

予想通り天候も急速に回復、先程の大杉谷林道と違い路面も乾いている。ダート林道を奥へ。

面谷林道2011omodani02.jpg
面谷林道2011omodani03.jpg
面谷林道2011omodani04.jpg

砂防ダムやズリ山が連続する川沿いの狭い林道を走り続けると谷間が広がり目の前に茶褐色の空間が姿を現した。
崩れた崖、木も生えない崖、連続する砂防ダム。荒涼とした谷間は過去何度も訪れた足尾銅山の精錬所跡のように見える。
面谷川の対岸の斜面には古城ような古びた石垣が見上げるような段をなしている。ここが次の目的地、面谷鉱山跡。

面谷鉱山跡2011omodani05.jpg
面谷鉱山跡2011omodani08.jpg


現在、建物はすべて解体されているため往事の姿を想像するのは難しいが、古写真によれば対岸の斜面は木造の選鉱場や精錬所の施設で埋め尽くされていた。他所で見る鉱山と違い、面谷鉱山は時代が古いためか基礎が石垣造りなのが珍しい。ここが鉱山と言うよりも城郭跡に見えるのはそのためだろうか。

林道から見える小さな尾根の先端に煉瓦が突き出た場所、外国の古城か砦を思わせるあの場所をまずは目指そうと思う。

面谷鉱山跡2011omodani06.jpg
2011omodani010.jpg


とはいえ当時は橋でも架けられてたのだろうが、現在は対岸へと渡るアクセス路は見当たらないため、気が進まないが川を渡る必要がある。
川辺まで下りてみると渓流には先行者が川渡り用に置いたと思われる飛び石のようなものが点々としているが、へたに踏んで足を滑らせ頭から水没してはたまらないため、一気にジャブジャブと川を渡る。川幅はたいしたことはないが11月下旬の水はなかなかの冷たさ。

2011omodani023.jpg
2011omodani015.jpg
2011omodani012.jpg
2011omodani021.jpg
2011omodani020.jpg

川を渡り到着した対岸の平地は煉瓦造りの基礎部分が顔を覗かせ、周辺には精錬後の廃棄物として排出されるカラミ煉瓦が散乱する赤茶けた場所だった。
ここから最上段を目指す。石垣部分を迂回しながら積もったズリの斜面を登っていく。

2011omodani011.jpg
2011omodani022.jpg
2011omodani013.jpg

傾斜を登り鉱山最上段に到達。先ほどの林道がはるか眼下となった。痕跡といったものはほとんど残されてはおらずススキ秋の西日を浴び風に揺れていた。

面谷鉱山跡空撮2011omodanidrone03.jpg

現在地が左上の四角い構造物の付近だ。斜面に連続する石垣部分にはおそらく選鉱場が置かれていたのではないだろうか。
最上段に集められた鉱石は、傾斜と重力を利用しこの斜面を下りながら破砕、選鉱が行われ川沿いの精錬所まで運ばれていたと思われる。その過程で棄てられた石は膨大なズリとなって谷を埋めつくした。

(下記参考)
鳥取県若松鉱山跡 → 【LINK】 兵庫県神子畑選鉱場跡 → 【LINK

時代はまったく違うが、他鉱山の紹介で以前描いた鉱石の選鉱概念図。

若松鉱山跡1905senkoumap.jpg


その一角に突き出ている古城を思わせる煉瓦作りの四角い構造物。
選鉱場の一部なのだろうと考えていたこの構造物、帰宅後、web上にある古写真を見ると煙を吹き出す排煙装置、煙突に見える。そして斜面に横たわる筒のような物で下部と繋がっていたことも読み取れた。

面谷鉱山跡2011omodani014.jpg

近代鉱山では開発が進むにつれ弊害も露わになった。そのひとつが煙害。精錬過程で発生する亜硫酸ガスの煙が地表に滞留、木々を枯らしつくした。もちろん事業主側も放置した訳ではなく、煙突を高台に移設したり、あるいは高さを伸ばし地上への影響を最小限に抑えようとした。



観測所を設け、気象学を駆使し試行錯誤の末、亜硫酸ガス対策の巨大煙突を作り上げる日立鉱山を舞台にした新田次郎の小説「ある町の高い煙突」を先日読んだばかり。面谷鉱山の古写真に写る斜面に横たわる筒は規模は違えど、日立鉱山にあったムカデ煙道とよばれた排煙管に似ており、この四角い構造物は煙突だった可能性がある。

日立鉱山の大煙突についてはWikipediaに読み応えのある記事が掲載されているのでぜひ読んで下さい。
LINK

15年以上前、日本一周を行った際、日立鉱山を訪れた。大煙突は既に倒壊していたが隣接する日立鉱山資料館は内部撮影可能、素晴らしい施設だった。

面谷鉱山跡空撮2011omodani019.jpg

面谷鉱山が位置するのはこのような山々が連なる地。九頭竜ダム湖(当時はもちろん存在せず)へと流れ込む支流の面谷川の最深部が開発され寄生するように鉱山街も作られた。

面谷鉱山2011omodanidrone04.jpg

面谷鉱山跡空撮2011omodanidrone01.jpg

林道は鉱山跡からさらに奥へと続いている。その脇、上記写真の左手部分の斜面に居住区画が設けられ鉱員とその家族がこ暮らしていた。
面谷鉱山においては他の炭鉱、鉱山の例に漏れず近隣で最も早く電化されたため、周囲の山村と比較すると生活水準はかなり高かったという。それでも現在は冬季閉鎖されるような場所に位置しているため、冬場は厳しい暮らしが営まれていたことだろう。

2011omodanidrone02.jpg

当時の写真をみると右岸の山の斜面にあった集落民家が密集していたことがわかる。建屋は一棟として残されておらず、わずかに痕跡はここも段々畑のような石垣だけ。それもそのはず、面谷鉱山が閉鎖されたのは昭和どころか、大正時代。



人の気配のない面谷鉱山跡だったが、二時間ほどの滞在時間に1台だけバイクが現れた。荒涼とした断崖ダートを走るバイクはなかなか絵になる。しばらく会話をかわしたが、自分と同じく冬期閉鎖前に訪れたとのことだ。

面谷鉱山バイク2011omodani016.jpg


ついでに以前から予定地マップに入れていた小学校の廃校を訪問。
山道を登った先の小さな集落外れに古びた木造校舎が残されている。


岐阜の廃校2011gifuhaiko01.jpg


廃校と鉱山、二つの林道奥を目指した初冬徘徊。
実は今回、紹介した場所とは別の予定地があった。しかしそちらは数日前、アクセス路の林道が冬季閉鎖されてしまい訪れることは叶わず。
林道開放は来年の春の雪解け後。それまで建物が残ってくれれば良いのだが・・・

[了]


スポンサーサイト



●2020年12月某日/倒壊した森の廃分校、その最後の姿。

2012haikotop.jpg
半年程前の夏、久しぶりに訪れた人里から隔絶された愛知県山中に残る分校跡。
老朽化した小さな校舎は傾き倒壊寸前となっておりその消滅も時間の問題だと書いた。
あれから数ヶ月。ついに分校校舎が倒壊、70年近くの歴史を終えたと情報をいただいた。
冷えきった冬の森の中、現れたのは残骸となった校舎の姿。


photo:Canon eos7d 15-85mm

まずは前回、2020年の夏に撮った写真を比較用に掲載。
愛知県山間部の入り組む尾根の合間に森に埋もれた廃校が残されている。鞍部となったわずかな平地に建つ古びた二棟の木造平屋。この小さな建物がかつての分校と教員住宅の跡地。

宇連分校跡2006ure07.jpg
宇連分校跡2006ure010.jpg

建物は既に大きく傾いている。垂直に伸びる杉の木立と比較するとその傾斜は一目瞭然。
いつ崩れ落ちるかもわからず、上記写真は建物の外側から撮ったもの。

宇連分校跡2006ure09.jpg
宇連廃村2006ure017.jpg

このような姿を目の当たりにして「廃校となってから50年あまり、倒壊も時間の問題だろう」と当時の記事に書いた。

2020年12月/倒壊した分校

宇連分校倒壊2012aichibunko01.jpg

数ヶ月前の夏の暑さが嘘のように冷えきった山中。日も射し込まない薄暗い山道を歩き続け到着した鞍部。
そこにあったはずの小さな分校校舎は情報通り倒壊していた。

宇連分校倒壊2012aichibunko010.jpg
宇連分校倒壊2012aichibunko03.jpg
宇連分校倒壊2012uredrone02.jpg

落下の衝撃と屋根の自重によって、地べたへと裾野を広げるように、数本の杉の木を巻き込みながら潰れていた校舎。
よく見ると校舎は真下へと潰れたのではなく、側面へ倒れ込んだことがわかる。



屋根には一本の杉が裏側の斜面から倒れ込んでいる。屋根にもたれかかるこの倒木、確か前回の訪問の際も既にあった。杉は大木というほどの太さでもない。しかしこの程度の重さでも、大きく傾きかかろうじて均衡を保っていた校舎にとっては致命傷となったはず。

2012aichibunko04.jpg
宇連分校倒壊2012aichibunko011.jpg
2012aichibunko05.jpg
2012uredrone03.jpg

崩れた校舎に近付くと砕けたばかりの木材の生々しい匂いが立ちこめていた。先日訪れた解体中の廃校でも嗅いだ同じような匂い。倒壊してからまだ一ヶ月ほどだろうか。薄暗い森の中で管理もなされないまま50年数、逆にここまでよく持ったというべきか。

宇連分校ドローン空撮2012uredrone01.jpg

分校跡が残されている場所はこのような杉林の中。周辺にはかつて小さな集落があり生活が営まれていたが、現在は廃村となっている。人が去った後、植樹されていた杉が伐採される事なく成長を続け人の痕跡を包み込んでいったのだろう。

2012uredrone05.jpg

それにしても廃校がある場所の立地に改めて驚かされる。同じ高度から周囲を見渡しても人工物は送電線の鉄塔一つすら見あたらない。



校舎が倒壊したことで現存する分校遺構は隣接する教員住宅の跡だけとなった。しかしこちらも崩壊した校舎と同じように屋根に杉が倒れ込み建物は傾いている。

2012aichibunko09.jpg
2012aichibunko06.jpg
2012aichibunko02.jpg
2012aichibunko07.jpg

今まで見てきた各地に残る無数の廃校。
それらの中には、今回の分校のように隔絶された場所で人目にも触れず、なんとか建ち続ける木造校舎も数多にあった。その多くが戦前に建てられたもの。
耐用年数を遙かに超えた2020年現在、それらの校舎は人知れず倒壊、失われていく時期なのかもしれない。

[了]

●2020年10月某日/神島監的哨と六階建。海を挟んだ二つの戦跡。

2010kamishimatop.jpg
2012年に渥美半島に残された戦跡、伊良湖六階建の廃墟を当サイトで紹介した際、
関連する物件として沖合にある神島監的哨の説明を載せたことがあった。
神島監的哨自体はさらに以前に訪れたことがあったため
その際の写真を掲載しセットで紹介するつもりだったが当時の写真はポジフィルム。
スキャナーが壊れたため取り込むことができず
「いずれ紹介したい」と書いたまま放置状態となっていた。

記事から8年、伏線を回収すべく20年ぶりの神島を目指す。
しかし当日は季節外れの強風が吹き荒れる気象。
神島行きの港へとやってきたものの果たして小舟は出航するのだろうか。


photo:Canon eos7d 15-85mm


白波と舞い散る波しぶき。さすがに欠航するだろうとの予想を裏切り、三重県神島行きの小舟は強風吹き荒れる港を出港、波が巻き上がる外洋へ向かった。

港を守る防波堤を通過し外洋へ出た途端、船体は波と風に翻弄された。持ち上がり、落ち込む船。船窓に降りかかる波しぶき。乗客から思わずどよめきが起こる。

2010kamishima01.jpg
伊良湖パイロットボート2010kamishima02.jpg

ゆったりと巨体を揺らしながら平行して走る2000トン級、定員500人、搭載車両50台以上の伊勢湾フェリーに比べ、こちらの神島航路は定員70名たらず。あえぐように波間を進む同じようなサイズの船は水先人を載せたパイロット船。



船内に入りきることのできなかった乗客は吹きさらしの後部甲板で頭から波をかぶり、ずぶ濡れの状態になりながら手摺りにしがみつき耐えている。助かったのは島までの所要時間がわずか15分たらずだったこと。これがかつて実際に体験した台風化の那覇、南大東島航路のように15時間続いていたら耐えきられなかったことだろう。

伊良湖パイロットボート2010kamishima03.jpg


船が滑りこんだ神島港内は先ほどまでの波と風が嘘のように静まりかえっていた。
降り注いだ海水でずぶ濡れの甲板を歩き20年ぶりとなる神島への上陸を果たした。乗客のほとんどが釣り人で到着と同時に重い機材を背負い、一斉にそれぞれの釣りポイントへ去って行った。

三重県神島2010kamishima04.jpg

島旅の魅力のひとつは集落巡りだ。限られた土地、そして他地域と接点を持たずに受け継がれた文化が、島独特の集落を作り出す。



神島において集落は、港周りにわずか一カ所、ここに島のすべてが集中している。唯一の例外が島南側にある学校だが元々集落内にあったものが移設したもの。

神島港周辺のわずかな平地から山の斜面かけて無数の民家が密集、300人ほどの島民の暮らしが営まれている。
軒先が触れあうほど迫る民家同士、その合間の迷路のような路地を迷いながら彷徨う。傾斜はしだいに増し入り組む急勾配の階段を登り続け振り返ると気がつくと港は眼下となった。

2010kamishima06.jpg

地形図を見ると神島には南側の学校周辺には日当たりも良さそうな高台が存在する。しかしあえて日照条件や面積も限られ、傾斜地である北側のこの場所に集落が選ばれた理由、それは漁業と生活が密接しているからなのだろう。



島での生活と港とは切っても切れない関係だ。漁業以外にも生活物資の運搬、島の外との唯一の連絡路が港となる。船の発着に合わせ生活のサイクルが組まれている離島も珍しくはない。
伊良湖水道を塞ぎ、伊勢湾、三河湾を太平洋の荒波から守る防波堤のような役割をしている神島。太平洋から打ち寄せる台風の土用波や南風を避けるため、現在地北側に港が作られ、密接するように家々が建ち、人口増加とともに山の斜面を埋めて行った。

2010kamishima07.jpg
2010kamishima05.jpg
2010kamishima08.jpg
2010kamishima09.jpg


まだ物足りないが、帰りの船の時間もあるため、ここから神島一周を行いながら目的地を目指す。
島といっても神島は標高170mほどの山を頂点にした円錐形の山塊島のため港周辺以外は切り立った断崖が続く。そのため神島一周路は、海岸線に出ることもなくひたすら山の中腹をトラバースする山道となる。




登り続けると山上に立つ神島灯台が現れた。
灯台横に建つ緑の蔦に覆われ廃墟となった白い建物も、20年ほど前はまだ下記写真のようにこぎれいだった。

2010kamishima10.jpg
神島灯台0101kamishima.jpg

神島灯台は当時猫で溢れていた。20年前の冬の某日、この場所で押し寄せてくる猫に埋もれたことを覚えている。しかし今日の灯台には猫の気配はなかった。



高台にたつ神島灯台からは伊良湖岬が目と鼻の先に見える。神島から伊良湖岬までは4km、一方で三重県の鳥羽港までは14km、行政面では三重県となる神島だが、距離的には愛知県の方がはるかに近い。
山上にある塔を持った建物は灯台ではなく伊勢湾海上交通センター、伊良湖灯台は海際にある。

神島灯台と伊良湖岬2010kamishima11.jpg

灯台から伊良湖水道を見下ろすと漁船であふれる狭い水道を音もなく巨船が次々に通過していく。

かつて灯台に居住しながらメンテナンスを行う灯台守という職があった。ここ伊良湖水道は海の難所として知られており、神島灯台は対岸の伊良湖灯台と並び非常に重要な灯台でもあったためう灯台守が置かれていた。神島での灯台守は伊良湖水道を通過し伊勢湾へ向かう船名を双眼鏡で読み取り、到着予定時刻を船主へ無線で報告する役割もになっていたという。

近年は灯台の無人化も進み、さらにGPSの進化で夜間の船の運行も可能になったため灯台自体が廃止されつつあり、灯台守という職業自体も廃れてしまった。



灯台を過ぎると再び山の斜面の道が続く。密生する灌木に覆われほとんど視界の効かない山道をひたすら歩く。

やがて木々が切れ古びた2階建の廃墟と化した建物が現れた。
この建物が戦跡でもあり廃墟でもある神島監的哨跡(かんてきしょう)。飾り気のない重厚で無骨な外観と分厚い壁はいかにも軍事施設らしい。

神島監的哨2010kamishima12.jpg

2010kamishima13.jpg
2010kamishima15.jpg
2010kamishima16.jpg

内部は痕跡のようなものが残されていることもなくがらんどうの空間。

窓の跡からは伊良湖岬を有する渥美半島がよく見える。
神島から北東へ直線距離で14km、広大な平野が広がる渥美半島先端部にかつて陸軍の兵器試験場、陸軍技術研究所伊良湖試験場、通称「伊良湖射場」があった。現在、赤白の煙突が立つ渥美火力発電所付近に射撃所が設置され南南西の海上に向け大砲の発射試験がくり返されていた。



適当な地図を描いてみた。発射された砲弾は伊良湖岬先端部上空を飛翔し、神島の沖合の太平洋上に着弾する。現在地、神島監的哨は渥美半島から発射され海上に落下した砲弾の弾着点を測定、発射所へ伝えるために作られた観測施設だったのだ。

[伊良湖試験場と神島監的哨の関係地図]
伊良湖試験場と神島監的哨地図2011kamishimamap.jpg


打ち出された砲弾の飛距離は10数km以上に及び、放物線を描き、20秒ちかく空中を飛ぶことになるため滞空時間中は風など気象条件の影響をもろに受ける。

軍事において気象は重要な要素でもあり、そのため射撃地点には六階建、高さ19mの気象観測塔が作られ、その建物は現存している。それがかの有名な通称、伊良湖六階建てだ。

伊良湖の六階建て陸軍技術本部伊良湖試験場気象観測塔1208iragonew01.jpg
伊良湖の六階建て陸軍技術本部伊良湖試験場気象観測塔1208iragohaikyo01.jpg
伊良湖の六階建て陸軍技術本部伊良湖試験場気象観測塔1208iragohaikyo03.jpg
伊良湖の六階建て陸軍技術本部伊良湖試験場気象観測塔1208iragohaikyo02.jpg

2012年に撮影した六階建。1930年に建設されたもので高さは違えど、構造や材質が神島監的哨と似通っているのがわかる。

現在は経年劣化のためか、神島監的哨と同じく黒ずんだ灰色の伊良湖六階建。しかし竣工当時の外観写真を見ると建物自体はずいぶんと白かったことがわかる。そういえば島を舞台にした小説「潮騒」の中でも、神島監的哨は「白い外壁」と表現されている。作者の三島由紀夫が取材のため実際に神島を訪れたのは1953年頃だから戦後しばらくは監的哨も同じような外壁だったのだろう。



近年、戦跡も近代建築と同じく保存の対象とされるようになった。しかし自分が初めて六階建を訪れた2005年頃は1階が農家の資材置き場として利用されていた他は放置状態。
当時は頼りない階段を伝い屋上へ登ることができた。狭い屋上の手摺りは監的哨と同じくわずか50cmほどしかなく、六階建とはいえ足がすくむ高度感だった。
2019年、久しぶりに六階建を訪れると階段は封鎖、さらに正面には建物の説明看板も設置されており驚かされた。



最後の写真は2019年のもの。正面に写真入りの説明看板が立てられたことがわかる。この周辺、次第に整備が進められているようだが雰囲気の良い砂利のダート道は舗装されることなくそのままだ。奥の建物は無線電信所跡。

伊良湖試験場六階建廃墟1908iragomisaki02.jpg


火薬を用い石や砲弾を飛ばす大砲の発明から500年あまり。大砲の飛距離は時代を経るごとに増し続け、性能試験には広大な敷地が必要となりこの地が選ばれた。その後も集落移転によって規模は拡大し続けた。

1946年に撮影された試験場の航空写真。秘匿された軍事施設だったが終戦後はこのように上空からも撮られることになった。終戦からわずか一年後のため稼働時の面影を残しているように見える。六階建の位置は長い影によって判明、弾道の下は荒れ地が広がっているように見える。現在はこのほとんどが広大な畑となっている。

伊良湖試験場航空写真2011kamishimamap2.jpg


ちなみに監的哨と言えば、神島のものが有名だが上記の地図にも描いたように、実は近隣の菅島にも似たような観測所が残されている。観測精度を増すために二つの方向から測定を行っていたと思われる。
菅島のものは神島以上に森に埋もれ廃墟化しているようでいつか訪れてみたいもの。菅島監的哨を訪れることで三角点の頂点の訪問が完了する。


監的哨2010kamishima14.jpg
2010kamishima19.jpg
2010kamishima20.jpg


観測所と電信室が置かれていたと思われる2階を抜け、薄暗い室内から屋上に出ると降り注ぐ秋の日差しに包まれた。

大海原を見下ろす狭い屋上は開放感が凄い。監的哨の標高は100mほどだが断崖上に立つため実際以上の高さを感じる。山の影に位置するためか、吹き荒れた風もここでは無風。日だまりは暑いくらいだ。

監的哨2010kamishima17.jpg
2010kamishima21.jpg


ツタが絡まり荒れ果てた廃墟のような外観だった神島監的哨はこの20年間でずいぶんと整備されてしまった。
内部に書き込まれていた無数の落書きはすべて消し去られ、新たに設置されたと思われるきれいな手摺りが屋上を厳重に囲んでいる。



青い海、輝く海、透き通る海、光と方角によって様々な色彩を見せる水面。砲弾はこの水面に着弾、沖合で白い水しぶきをあげた着弾点を観測後、無線によって伊良湖試験場へ連絡が行われていたのだろう。

2010kamishima22.jpg
2010kamishima18.jpg
2010kamishima23.jpg
2010kamishima24.jpg

海を背景に建ち続ける朽ちた棒、潮騒の中では国旗掲揚だと書かれていたがと本当だろうか。



伊良湖試験場と神島監的哨。海を挟んだこの二カ所をセットで紹介することに意味がある。2012年に書いた記事の伏線を8年かがりでようやく回収することができた。

その後、残り1時間ほどで神島の一周を終え港へと帰還。波はまだ多少残っており帰路もそれなりにハードな船旅となりそうだ。

[了]

●2020年9月某日/頂に広がる廃空間、失われた牧場の夏。

2009kfarmtop.jpg
どこまでも続く山塊、深い谷。険しい山岳地帯が続く新潟、長野県境付近。
断崖によって下界と隔てられた台地上に広大な原野が現れる。
その中心には数本のサイロ、そして崩れ落ちた建物が廃墟となった姿をさらしている。
例によって衛星写真をスクロール中に見つけた不自然な空間と
特殊な地形に惹かれ昨年の晩秋に訪れたのがこの場所、かつてのT牧場跡だ。

北海道を彷彿とさせる広大で美しい丘陵光景と廃墟のミスマッチな組み合わせに惹きつけられ
再び再訪した牧場跡は秋から一転、季節は巡り緑に包まれていた。
車を停め広大な原野で一日を過ごす。


秋の訪問記録

山々に挟まれた急峻な谷間を縫うように走る県道。下界から牧場跡は視認できず、見上げるような山上に平坦な原野が広がっているとは、想像もつかない。
牧場といっても牛が放牧されているわけでもなく、ましてやソフトクリーム目当ての観光客がいるわけでもない。人知れぬ台地上に立地し、さらに唯一のアクセス路である林道も行き止まりとなっているため通り抜ける車も皆無。



県道から離れ斜面に刻まれた急勾配の林道を登り続ける。やがて勾配が緩むと視界が開け広大な空間が広がった。
T牧場跡に半年ぶりに到着。前回は紅葉に包まれいていた秋の牧場跡、季節は巡り9月の本日は緑の空間へと変化していた。草原の中央には崩れ落ち廃墟となった牧場施設が点在している。

鳥甲牧場2009kfarm02.jpg


半年ぶりに現地を訪れ驚かされたのは廃墟周辺に以前は存在しなかった真新しい人工物が目に入ったこと。
その正体は廃墟の周囲に立てられた、のぼりや看板。朽ち果て彩度の低い建物とは対称的にイベント会場を思わせるカラフルな色彩が非常に目立つ。

まさか廃牧場への立ち入りを制限する看板なのだろうかと、旧牧場道路を徐行し車を近づけるとまったく逆、トレッキングコースを示す案内だった。廃墟群内部を突き抜ける何本かの古びた通路。以前は公道なのか私有地なのか判別が付かなかったため、立ち入らなかったが地元自治体からトレッキングコースに指定されたことで、堂々と歩くことができるようだ。

鳥甲牧場2009kfarm03.jpg
200902.jpg

帰宅後、調べるとこの一体、その特殊な地形と地質を売りに観光地化をめざしているらしい。T廃牧場も地質的に貴重な場所らしくトレッキングコースのひとつにされたようだ。とはいえ指定されて間もないためか、知名度も低いようで今回ほぼ丸一日に渡り廃牧場に滞在したがまったく人の気配はなく広大な空間を独り占めできた。



T廃牧場の特筆すべき点はその立地だ。深い谷間や峡谷が複雑に入り組み、険しい地形が形成される新潟長野県境の山岳地帯。そんな場所の台地上の突然現れる広大な平原、標高1086m。

200901.jpg

見下ろすとここが下界と隔絶された空間であることが一目瞭然。谷底と廃牧場の標高差は500m近く、深すぎて視認できないが、遙か眼下の谷底には、先ほどまで車を走らせていた渓谷沿いの県道がある。

鳥甲牧場跡2009kfarmd0104.jpg
2009kfarm04.jpg

昨年秋この場所を訪れたのは、衛星写真がきっかけだった。山中にある広大な草原に違和感を感じ画面を拡大していくと崩壊したと思われる何らかの施設がいくつも映し出されていた。怖い物知らずのgoogleストリートビュー撮影車もここへと迷い込んだようで廃墟の様子が見事にストリートビューの画面に映し出されてされていた。



草原の中心を通過する印象的な一本道、ゆるやかな丘陵を登りきったその先にT牧場跡全体を見渡すことができる小さなスペースがある。車を停め窓を全開に吹き込む風を浴びながらぼんやりと過ごす。

9月とはいえ季節はまだ夏。猛暑に包まれた下界とは対称的に風が吹き付けるここは別世界のようだ。南から吹き込む気流が長野県の山岳地帯で雲を湧かせ、新潟県の平野に乾いた空気を流し込んでいくでいく。この場所はちょうどその境目にあたり、南北でまったく違う天候となっていた。

一本道はここからダートとなって南にそびえる山裾へと消えている。以前このダート道の奥はどのようになっているのだろうか、といつもの林道探索のつもりで気軽に車で乗り入れてしまい、免許を取ってから数回あるかないかのひどい目にあったため二度と入るつもりはない。

牧場跡2009kfarmd0107.jpg

牧場施設跡の中心にあった数棟の大型木造建築は崩壊し地面にはバラバラとなった木材が散乱している。
このように中心に向け建物が圧壊してするのは雪圧の特徴だと思われる。緑に包まれ風が吹き抜けるさわやかな夏から一転、冬場は厚い雪に覆われ厳しい世界に包まれるはずだ。



前回も書いたがT牧場跡は、完全に見捨てられた空間というわけではない。広大な牧場跡の一部は閉鎖後、農地となり現在も農作業が営まれており今日もはるか彼方で動く一台の作業車が見えた。
また崩れ落ちた牧場施設も完全な廃墟というわけではなく、農家の方が使用する重機駐車スペースとして利用されているようだ。
過去の航空写真と比較すると、牧場閉鎖後、耕作地の敷地は次第に広がっているようでやがて原野だった牧場跡もいずれ丘陵畑へと生まれ変わるのだろうか。

2009kfarm05.jpg
2009kfarm016.jpg
2009kfarm014.jpg
2009kfarm013.jpg
2009kfarm06.jpg
2009kfarmd0106.jpg

牧場跡から見下ろす谷間はわずかな平地や斜面に張り付く秘境集落の点在地。冬場は豪雪に見舞われるこの地においてはるか古代より身を潜めるように生活が営まれてきた。平地というものがほとんど存在しない傾斜地のため、麓の村々で盛んな水田すら作ることもできない厳しい暮らし。

それらの集落から見上げるようにそびえる頭上の山を登った先に広大な平地が空間があることはどの時代に「発見」され開拓が始まったのだろうか。戦後直後に撮影された航空写真を見る限りこの台地は木々に覆われた原生林のような状態に見える。一方で1970年頃にはすでに切り開けれており、開拓が行われたのはこの間と思われる。

鳥甲牧場2009kfarmd0101.jpg


広大な空間は時間によって様々な変化を見せる。日はやがて西の空へと傾き、草原に点在する灌木やサイロが長い影を描く。日没が近付くにつれ西の空に新たに湧いた雲によって太陽は遮られ、周囲は次第に薄暮に包まれていった。

2009kfarm011.jpg
2009kfarm018.jpg
2009kfarm07.jpg
2009kfarm08.jpg

原野に停めた車内でツーリングマップルを開き今後の予定を思案、幸い下界で買った食料、シュラフなどの車中泊グッズは車内に搭載してあり場合によってはこの場所でこのまま車中泊してもよい。



そんな事を考えていると薄暗い空間が明るみを帯びた。フロントガラス越しに外を眺めると薄い闇が広がる空間に雲のわずかな切れ目からオレンジ色の光が射し込んでいるのが見えた。

鳥甲牧場跡2009kfarm012.jpg
2009kfarm015.jpg
2009kfarm010.jpg
2009kfarm017.jpg

光は廃墟となった牧場群を浮かび上せると1分ほどで消え去り日没を迎え夏の一日は終わった。

結局別の予定場所が見つかったためこの場所を発つことに決める。上空にはまだ赤みが残るが既に原野は闇に包まれている。車のライトを点灯させるとほぼ一日を過ごしたT牧場跡を後にした。

[了]



●2020年7月某日/森の廃分校。迫る終焉の時。

2009uretop.jpg
廃村となった集落と共に廃校となり森に残された分校跡。
規模は小さいが割と有名な場所でもあり、かなり以前に森をさまよい辿り着いたことがあった。
あれから10年あまり、最近現地を訪れた方のSNSを見てみると
想像以上に廃校の建物老朽化が進んでいる姿に驚かされた。
また画像によれば周辺で行われていた森の伐採作業が廃校間際まで及んでいるようだ。
倒壊するのか、あるいは解体されるのか、消滅も時間の問題となってきたように思えたため
最後にその姿を目に焼き付けようと10数年ぶりに現地を訪れた記録。


photo:Canon eos7d 15-85mm


四方に伸びる尾根が複雑な山塊を形成する愛知県山間部。標高900m弱の山頂付近から谷間を流れる川は灌漑用に建設されたダムによってせき止められている。
今回の目的地はダム湖をさらに遡った山の中。入り組む尾根の合間に森に埋もれた廃校が残されている。

2006ure02.jpg

このダムの水底には様々な構造物や景観が沈んでいる。両岸が狭まるダム湖のバックウォーター付近、その水の底には幻の滝が人目に触れることなく眠っている。

2006ure01.jpg

車を停め見下ろすと干上がったダム湖の湖底から現れた岩に腰掛けた釣り人がひとり、静かな湖面に糸を垂れている。ダムの水が減ったとは言え貯水率は50%をあまりを示しており穴滝はまだ水の底、容易には姿を見せない。下記写真は4年前の2016年の渇水時の同一地点。

宇連ダム1608uredam0204.jpg

ダム湖に注ぐ上流部の透明度は非常に高く思わず目を奪われてしまう。以前から、この清流で川遊びをしたいと目論んでおり、今回探索が順調に終われば帰路に寄ろうかと考えながら車を進めた。

廃校、廃村への入口はまだ先。古びてはいるものの一応舗装された車道も続いているがこの先、転回スペースもなかったように記憶しているため遙か手前の空き地に車を停め徒歩で廃校と廃村に向かうことにした。ちなみにこの道、地図上では峠を超えて隣町の主要道へと接続されるように書かれているが実際には廃道状態となっているようだ。



急勾配が続く舗装路から外れ分岐した山道へ入る。幅員は広くかつては車両の通行も可能だったと思われるが現在の路面は荒れ果てている。

2006ure04.jpg

それにしても暑い。暑さと湿気が蔓延する7月某日、梅雨の晴れ間。生い茂る夏草、行く手を阻む虫、探索には不向きの季節がやってきた。分校跡はこの坂を登り切った先にあったはず。ちなみに2020年現在、googlemap上に分校跡と表示されるアイコンは、実際の校舎の位置よりも数百メートルほど南へとずれているため、あまりあてにしない方がよいかもしれない。



悪路を上り詰めていくと突き出た小さな尾根が行く手を遮っており、道も迂回するかのようにカーブを描き視界から消えている。尾根側に目をやると杉の木立が密集する稜線の先に光が射し込む空間が見える。あの明るい空間に目的の廃校があるのだ。

宇連廃村2006ure05.jpg
2006ure06.jpg

近道をすべく道を外れ森へと入り、尾根を乗り越えると鞍部となったわずかな平地に建つ古びた二棟の木造平屋の建物の裏側が姿を現した。この小さな建物がかつての分校と教員住宅の跡地となる。

宇連分校跡2006ure07.jpg
宇連分校2006ure012.jpg


以前、さまよいながら辿り着いた際には「湿り気を帯びた薄暗い森に佇む廃墟」といった印象を持った廃校だったが久しぶりに訪れると南面を覆っていた植林杉はそのほとんどが伐採されており光が射し込む空間は以前比べるとわずかながら明るい雰囲気。脇には伐採された丸太が積み上げられているが出荷されることもないのか苔むしている。

宇連分校跡2006ure013.jpg

到着した廃校は側面から見た感じでは大きな変化がないように見える。
しかし正面にまわると唖然とさせられた。校舎建物全体が大きく西側へとかしいでいる。

宇連分校跡2006ure09.jpg

垂直に伸びる杉の木立と比較するとその傾斜は一目瞭然。もちろん校舎は以前から古びてはいたが、ここ数年で一気に老朽化が進んだと思われる。廃校となってから50年あまり、風通しの悪い森に立つ建物は手入れがなされないとこのような状態になってしまうのか。



校舎裏手にに回り窓の跡からかつて生徒が学んだ教室跡を覗く。窓枠部分はご覧のようにすべて外れているため、建物内、そして傾き具合がよくわかる。

宇連分校跡2006ure010.jpg
宇連分校2006ure011.jpg

倒壊を食い止めようと思ったのか、天井を支える頼りなさげなつっかえ棒が見えた。当然焼け石に水、校舎が人知れず崩れ落ちるのも時間の問題だろう。これらの写真、もちろん中に入る気も起こらず全て建物外から撮ったもの。



これだけでは一見「学校」にはとても見えないが壁面の片隅にはカナの読み方や本の読み方を説明する朽ちたポスターが張られているのが見え、わずかにその痕跡を残している。

宇連廃村2006ure015.jpg
宇連廃村2006ure017.jpg

倒壊寸前なのは分校跡だけではない。一旦離れ校舎に隣接する教員住宅跡を観察。
作り、規模は非常に似ているがこちらも大きく傾き、また屋根は倒壊した杉に直撃されていた。



木漏れ日が落ちる草むらには廃村にお決まりの一升瓶が散乱する。このような光景を見ると人里離れた集落では、酒が唯一の娯楽だったのかなと当時の厳しい生活を想像するが、とある離島の廃村では残された大量の一升瓶は当時飲料水の保管場所として使われたものだとも聞いたこともあり、必ずしも酒ばかりだったとはいえないようだ。

2006ure016.jpg
2006ure014.jpg

それにしてもこのような山中に学校を運営するだけの子どもを有する集落があったことに驚かされる。改めて衛星写真をを見てみると一面緑の世界には他の集落は存在せず、完全に孤立しているように見える。
ここが廃村となった理由は時期から考えると下流に建設されたダム建設からは直接の影響は受けた訳ではないようで、林業衰退や人口自然減が原因だろうか。



今回紹介するこの廃校、「人知れず消え去る廃校」みたいなタイトルにしようかと考えていたが、実は少し大げさでこの廃校脇の旧道は最近になって近隣の山への登山コースとして人気が出て来たようで登山シーズンにはわりと人通りもあり廃校へ立ち寄る登山者もいるようだ。

2006ure03.jpg

帰路、再びダム湖へと流れこむ清流の脇を通過する。梅雨の合間のうだるような暑さと湿気。あの清流に浸かったらさぞかし冷たく心地よいことだろう。川辺で水遊びでもしようと考えながら車を走らせ、予定していた場所へ到着、路肩には車を停めるスペースもある。
ところが眼下の川原で見たのはたむろする猿の群れ。その数は10匹近くはいるだろうか。ガサガサと木を揺らし警告された。熊がでるとの警告看板は見たが、猿もなかなか手強い相手だ。川遊びは諦めそっと車を発進させた・・・。


2020年12月/追記
「倒壊も時間の問題だろう」と書いた今回の分校跡、
訪問から四ヶ月ほど過ぎた2020年秋ついに倒壊してしまった。LINK


[了]






Pagination

Utility

プロフィール

hou2san

Author:hou2san
●なにかあれば
下記メールフォームで。↓
場所を教えろよなんてことでもいいです。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事