fc2ブログ

●2023年秋某日/冬迫る高所の校舎へ。

  • 2024/03/02 22:22
  • Category: 廃校
2311yamanashitop.jpg
晩秋の山梨県奥地は冷えきった空気に包まれていた。
日も当たらない霜に覆われた0度近い深い谷底、
そこから分岐する山道を登り続けるとようやく日射しに包まれた。
やがて視界が広がると廃校が姿を現す。
標高1,200m、校舎の上には濃紺の空が広がっていた。


※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。

2311yamanashi00.jpg

葉を落とした木々と晩秋の空。曲がりくねる山道を登り続けると木々が途切れわずかな平地が広がり、数棟の民家が姿を現した。その南端にある小学校の校舎跡に到着。先程まで日も当たらない深い谷底を走っていたため、校庭に立つと空の広さを感じさせられる。
 
山梨県甲州市旧塩山市立神金第二小学校校舎廃校2311yamanashi0101.jpg
2311yamanashi0105.jpg

停止したままとなっている時計の針、ベニアが張られた窓。
校舎は古びているものの荒廃した雰囲気が感じられないのは、ここが廃校ではなく休校中のため地元の方によって定期的な手入れがなされているからだろうか。

2311yamanashi0103.jpg
甲州市旧塩山市立神金第二小学校校舎廃校2311yamanashi0104.jpg

現在地は標高1,200m。その高度ゆえ澄み渡った濃紺の空から照りつける太陽光が校舎壁面とのコントラストを作り出し眩しいほど。
以前訪れた長野県大平宿の廃校は、過去訪れた廃校の中ではトップクラスの標高だったが、偶然にもほぼ同じ高度。→LINK
背後の山肌は標高の高さを物語るように、高山系の植栽であるカラマツ樹林に覆われている。これもまた大平宿との共通点。



まもなく冬が訪れる山梨県奥地。この場所の厳しい寒さを物語るように校舎は各所から煙突が飛び出している。冬場は各教室で赤々とストーブが灯されていただろう。

山梨県の廃校2311yamanashi0107.jpg
山梨県の廃校2311yamanashi0106.jpg
2311山梨県の廃校yamanashi0102.jpg

学校周囲には古びたお寺、そして廃屋らしき数棟の平屋が隣接している。廃屋の合間からは下を流れる渓流へと続くと思われる山道があり何か現れそうな予感がしたので下ってみることにした。

2311yamanashi0201.jpg
2311yamanashi0202.jpg

急勾配の山道は落葉した膨大な枯れ葉に覆われ滑り台のような状態となっていた。枯れ葉にまみれガサガサと滑り降りるように下って行くと梢の合間から建物の影が見えた。

2311yamanashi0205.jpg
2311yamanashi0208.jpg
2311yamanashi0203.jpg

谷底に広がる森の中にあった廃屋。周囲に密集するは木々は全て落葉しており、日射しが直接降り注ぐ明るい場所。
よく通っている紀伊半島(三重、奈良、和歌山)の廃村や廃校も森に覆われていることが多いが、その植栽は杉の植林がほとんど。杉は冬でも落葉しないため、日照時間が多い紀伊半島においても一年を通し薄暗い雰囲気となっている。広葉樹の森における冬の明るさを改めて実感。



そのような空間で目を引いたのが縁側に置かれている四角い箱、その正体はレトロなテレビだった。おそらく誰かが演出用に縁側にセットしたのだろう。どこか顔のようにも見えるテレビ、なんだか話し出しそうに思えた。

廃村のテレビ2311yamanashi0204.jpg
廃村のバイク2311yamanashi0207.jpg

また片隅には古びたバイクの廃車も残されていた。岩に立てかけられたその車体は岩に生える苔によって設置面から浸食され、森に戻りつつあった。
枯れ枝の合間から日射しが降り注ぐ茶褐色の空間も夏場になると隙間なく葉に覆われ、空も見えず陽も当たらない緑の世界へと変化する。

2311yamanashi0206.jpg

冬間近。高所のこの場所はまもなく厳しい冬に包まれる。

[了]

スポンサーサイト



●2023年夏某日/最果ての地。消えゆく下北半島廃校群

  • 2023/11/19 22:22
  • Category: 廃校
2308simokitatop.jpg
青森県東端に伸びる半島、下北半島。
広大な草原、荒涼とした台地、さらに廃校の宝庫ともいえる秘境感溢れる下北半島に惹かれており
北海道を車で訪れる際は大間〜函館ルートがある下北半島を必ず通過することにしている。
そんな下北半島を最後に訪れたのは2016年、各所に残された廃校となった木造校舎を徘徊した。
その後それらの校舎は順に解体が進められているようで、みるみる数を減らしているようだ。
公開されている解体スケジュールを見る限り残り数年で校舎は一掃される可能性もある。
2023年、その広大さ故、当時回りきることができなかった残りの廃校探しを行った。
しかしこの7年間に解体も進みその姿を見ることができたのは予定地の半分程度となった


前回の徘徊記録

※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。

青森県下北半島尻屋崎灯台2308aomorihaiko0103.jpg

2023年夏、青森県下北半島尻屋崎。岬先端に広がる草原に白い灯台が建つ。
青森県3大岬、大間崎・尻屋崎・龍飛崎。ここから50km程先にある本州最北端大間崎は平坦な土地に民家や土産物屋が迫り秘境感は感じられないが尻屋崎は違う。灯台以外何もない荒涼とした立地。そんな雰囲気に惹きつけられ青森県を訪れると龍飛崎と共にとりあえずここを訪れてしまう。



下北半島中央部に残る廃校校舎。現れた校舎は予想以上に大きく、そして立派だった。その大きさ故かなり引かないと全容を捉えることが出来ない。

青森県むつ市の廃校第二川内小中学校2308aomorihaiko0106.jpg

校庭はトンボが気ままに飛び交る広大な草原と化していた。校舎全体が収まる場所を求め、背丈程に生い茂る草むらをかきわけ下がっていく。足に張り付く無数のバッタを払いのけながら進みようやく校舎の8割ほどがレンズに治まった。それにしてもほとんどの写真にトンボが写っている。

青森県むつ市の廃校第二川内小中学校2308aomorihaiko0101.jpg

農地や荒れ地が続く台地上に廃校舎はいきなり現れる。周辺には1棟の民家すら見当たらない。当時は周辺に集落でもあったのだろうと、帰宅後過去の空中写真を検索してみるが1970年代まで遡っても周囲は畑だけ。これだけの巨大な学校を維持するだけの子ども達はどこから現れたのか。



空中写真を改めて眺めると学校から少し離れた等距離に似たような規模の2つの集落がある。なるほど、学校を開設するにあたり両集落からの通学距離が平等になるよう、何もない中間地点が選定されたのだろう。
こういった事例は時折見られ、半年ほど前の極寒の真冬、登山の末発見した紀伊半島山中の廃校も、谷底の2つの集落中間点ということで切り立った尾根上に立地していた。

青森県下北半島の廃校2308aomorihaiko0105.jpg
2308sshimokita0302.jpg
2308aomorihaiko0104.jpg

昇降口があったのは停止したままの時計が据えられた校舎中心のあたり。
遠目には真上の屋根が抜け落ちているのが見えるが、影響は二階だけだろう。と思いながら建物に近づき、正面入口の薄汚れたガラス越しに見た昇降口は荒廃した空間となっていた。吹き抜けとなっていたため、抜け落ちた屋根の構造体が二階諸共一階までを埋め尽くす。

青森の廃校2308simokita0301.jpg

閉校記念のメッセージ、そして最も奥には展示品だったのか船のようなシルエットも見える。
現在は朽ちゆくままになっている廃校だが、その規模故か竣工時はかなり凝っていた構造だったことが装飾等からもわかる。また建物はこれだけではなく、裏手には体育館も残されている。



下北半島のすごさはこの規模の木造校舎の廃校がいくつも現れることだ。現在地の南西沿岸部には同規模の廃校が点在(訪問した2016年当時)、それらはいずれも避難所として校庭が開放されている。そんな下北半島廃校群だったが訪れる度にその数を減らしている。

2308aomorihaiko0102.jpg

廃校からしばらく車を走らせると小さな集落があった。集落内の細い路地を通過中、路肩に座りたむろする数人の老人達がいたので最徐行で通過、その際車の窓を全開にしていたので、彼らの会話が耳に入った。
田舎でよくある(自分の田舎でもある)見慣れぬ通過車のナンバーチェックが行われたようで「こりゃとんでもないところから来た車だ。」という老人同士の会話が聞こえてきた。
続いて「ありゃ○○さんの孫が帰省したに違いない。」という言葉が耳に入りその見当違いの内容に思わず微笑んでしまった。あの老人達は先ほどの学校に通っていたのだろう、話を聞いておけば良かった。



この廃校近くには鉱山跡もあるため、ついでに寄る予定だったのだが時間切れで叶わず。夏の太陽は次第に傾きやがて陸奥湾に夕日が沈んでいった。

2308aomorihaiko0107.jpg

翌日も下北半島で廃校探索の続きを行った。過去に訪れた廃校の多くが解体され、また今回訪問を予定していた廃校も2棟を残し解体されすでに更地となっていた。

下北半島においては特に中央部に位置するH村で廃校解体スケジュールが公開されている。それを閲覧する限りでは数年内に「廃校の宝庫」と名付けた下北半島から木造校舎は一掃されることだろう。とはいえ老朽化した校舎の維持費の捻出も困難でこればかりは仕方がないとドライに思う。

[了]

●2023年4月某日/紀伊半島、失われ行く痕跡を求めて[後編]。野迫川秘境地帯。

  • 2023/07/04 22:22
  • Category: 廃校
2304tateritop.jpg
三重、和歌山、奈良を跨ぐ紀伊半島山岳地帯徘徊。
南紀に点在する廃校やマニアックな地点を巡り続け、昨夜は山の中で車中泊。
最終日は秘境とも言われる奈良県野迫川村、最果ての尾根の先端に張り付く山岳集落に到着した。
この集落はその特異な立地が自分の興味を引き、以前から定期的に訪れている場所。→LINK
前回と比べどこか変化はあるのだろうか


前回の記事

※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。

最深の地、奈良県野迫川村へ。人口わずか350人、村の総面積のほぼ全てを山岳地帯が占める秘境の地。

2205naramap.jpg

その野迫川村の果て、尾根上の林道を走り続けた先に桃源郷のような集落、立里(たてり)がある。
標高750m、杉林の人工林が切り開かれた山上の斜面に10数棟の民家が張り付いている。建物の多くは荒れてはいるが、現在もわずかながら居住者がおり廃村ではない。

2304tateri0205.jpg

集落中央に残されてた廃校となった立里小学校の木造校舎と小さな校庭。
窓が破れているため、外からでも当時を偲ばせる教室の姿や当時の学校生活の雰囲気を間近に感じることができる。

2304tateri0206.jpg
2304tateri0211.jpg
2304tateri0209.jpg

窓から撮った南面の廊下。プレートを見ると低学年と高学年に分かれ授業が行われていたようだ。壁面には当時の絵画が剥がれることないまま張られており学校生活を垣間見ることが出来る。かつて近辺には鉱山があり、最盛期には多くの子ども達がここで学んでいた。



残されたままのピアノも窓から見える。以前被せられていた赤いピアノカバーが消え去っており、この廃校を初めて訪れて以降、変わらないように見える光景にもわずかながら変化が見られる。しかし卒業生が書き込んだと思われる黒板の印象的な文章だけは消させることもなく残されたまま。鬼ごっこ、川遊びなど当時の子ども達の生き生きとした様子が目に浮かぶ。

奈良県立里小学校跡2304tateri0207.jpg
2305natataterio210.jpg
2304tateri0208.jpg
2304tateri0210.jpg

林道の行き止まり、果てにある立里の立地は壮絶だ。周辺に幹線道路、他の集落は一切存在せず、下界から隔絶された尾根の果てに位置している。
急峻な谷底には最も近い幹線道路といえる県道が走るが2023年現在、両者を直接行き来する手段は失われている。地図で初めて立里の存在を知った際にはその特殊な立地から「ここには何か隠された秘密があるに違いない」と無邪気に感じたものだ。立里集落の維持やアクセス路に関しては後半に様々な痕跡脇を通過したため後述する。



人の気配のない校庭の石段に腰掛け、昨夜Aコープで買って置いたパンをかじる。日当たりも良く静まりかえる集落の居心地の良さに今回もつい長居してしまった。

2304R7340101.jpg

続いて山上の現在地から谷底を目指す。見渡す限り人工物が一切見当たらない紀伊山地の山々。唯一目に入る人工物は県道734号。目的地は上記写真の○印をつけた場所にある池津川橋。季節柄見づらいが、木々が枯れる冬場ならばここから特徴的な橋のトラスを俯瞰できる。両者を直接行き来する手段はなく、○印まで辿り着くには20kmを越える山道の大迂回を強いられる。



一旦野迫川中心地まで林道を延々と逆戻り、ここから分岐する県道734号を下っていく。県道と言っても昨日走った国道425号からも察する通り、小さな落石や荒れた路面が続く離合困難な谷底の山道。鹿の群れも現れる。

2205nosegawamap01.jpg

ここ数日間、紀伊半島の悪路、林道を走り回ったため、その程度ならば何とも思わないがカーブを曲がった瞬間、目に飛び込んだ杉の倒木が行く手を塞ぐ光景にはさすがに驚かされた。周囲にはホコリや花粉が舞い上がっているため杉は倒れたばかりに見える。未だトラウマとなっている幼少期読んだ児童文学ズッコケ山賊修行中[→LINK]冒頭で登場する土蜘蛛族の襲撃のシーンと同じ状況。

倒木は道を塞ぎ迂回スペースはゼロ、再び野迫川山上に戻り別ルートへ迂回すれば半日近いロスとなる。車から降りると車高をチェック、山側から倒れ込んだ杉は大木と言うほどでもなく、谷底側に向かい直径を細めているため先端付近ならば乗り越えられるかもしれない。失敗すれば車体裏に幹や枝や引っかかり動けなくなる。まずは力の限り倒木を押し込み枝を折り、車輪を谷底ギリギリに移動、四駆をフルに使い、同時に慎重に乗り越えた。

2304iketsugawa0101.jpg

kii03.jpg
ひたすら続く県道734号。道中通過した谷間の小集落、池津川。県道は20棟ほどの民家の中央を通過している。こちらは立里とは違い深い谷底、また洗濯物等からも生活の気配を感じることができる。ここにも廃校となった小学校校舎が残されている。

廃校池津川小学校跡2304iketsugawa0106.jpg
池津川小学校跡2304iketsugawa0104.jpg
2304iketsugawa0103.jpg
2305naratsuika0501.jpg


池津川小学校の立地は少し変わっており、小さな丘の上にこじんまりとした平屋の校舎がぴったりとおさまっている。急勾配の階段を登り、ガラス越しに室内を覗くと生徒が書いた絵画がわずかに見えた。このような子どもの作品も、先ほどの黒板文字を含め当時の生活をうかがい知る貴重な資料だったりする。

2304iketsugawa0108.jpg
奈良廃校2304iketsugawa0107.jpg

意外だったのは小さな校舎にそぐわない校庭の広さ。山岳集落、斜面集落、谷底集落で困難なのが平地の確保。貴重な平地のほとんどは農地〜居住区画の順に優先利用されており、そのような場所を訪れた際には車を停めるスペースにも難儀することが多いのだが、ここは校庭が広大で駐車場所には困ることはことはなかった。すぐ近くには木造校舎を思わせる建物が残されており、こちらは初期の学校だったのかもしれない。



池津川を発つとここから15km区間、一棟の民家も現れない狭い山道が延々と続く。県道と並行して流れる池津川の川幅も広がり渓流から渓谷の様相へ。このあたりの川辺には鉱山施設跡や有名な廃村中津川がある。 

県道734号2304iketsugawa0102.jpg
2304R7340103.jpg

現在地は数時間前まで滞在していた立里集落まで直線距離で600m、最短地点にあたる場所。山上の○印は先ほどこの場所を俯瞰して撮った林道立里線。しかし現在地と立里との間は池津川と500m近い標高差、そして絶望的な距離で隔てられており、ここからあの場所へ到達するには23kmの山道を延々と走り続ける必要がある。



ここまで共に下ってきた池津川はまもなく川原桶川と合流する。2つの川の合流地点には下界と隔絶されたように見える立里のアクセスを偲ばせる様々な遺構が集中、非常に興味深いポイントでもあり、順を追って説明する。 

奈良県野迫川村立里地図2305nosegawamap2.jpg


●遺構その1 [廃吊り橋]

立里の吊橋2304R7340102.jpg

池津川に架けられた吊り橋。メインケーブルは維持されているが踏み板は崩落、廃吊り橋となっており現在は渡ることはできない。この廃吊り橋はかつて立里と県道とを直接結んだ人道であった。地理院地図に急勾配の人道が集落から吊り橋まで表記されていたため、以前しばらく下ったことがあったが痕跡は割と明瞭、吊り橋さえ生きていれば現在も徒歩でなら通行できそうなのだが。

●遺構その2 [未成路]未開通区間

道上垣内立里線2305naratsuika0504.jpg

廃吊り橋の近くには近年になって立里集落まで通じる林道と734号線を、上下から車道で直接接続しようと試みた痕跡も残されている。吹付法面を贅沢に使用した立派な道路なのだが、工事自体動きも見られず未成路のように感じる。特に規制もされていなかったので徒歩で少し偵察してみたがこの先は崩落しているようだった。それでも工事看板の占有期間が更新されていたため、放棄されたわけでもないのだろうか。

●遺構その3 [索道跡]

2304naratateri02.jpg

立里集落への物資運搬には索道(ロープウェイ)も使用されていた。県道脇の茂みの中、錆び付いた発着場から伸びるケーブルはまだ生きており、遙か山上の尾根へと消えていった。ちなみに山頂駅は現在もその姿を見ることができる。
このような索道は、山岳集落では特に珍しいものではなく、紀伊半島においては明治〜大正期における全盛期には索道会社が乱立、中には全長15kmを越える巨大索道もあった。これら索道群は道路網の整備と共に衰退、姿を消していったが、鉱山のあった立里の索道は割と近年まで使用されていたと思われる。


●遺構その4 [池津川橋]

新緑に包まれるトラス。合流地点でもっとも目立つ遺構は林道川原桶川線へと続く池津川橋。これがなぜ遺構なのか。それは現在、池津川橋は封鎖され渡ることができないからだ。

2304R7340105.jpg
池津川橋2304naratateri03.jpg

看板には「冬期の間通行止め」と書かれているが、この先に続く林道川原桶川線は崩落によって通行できない状態となっており、冬期以外も開通している姿を見たことはない。周辺でも山体崩壊が相次ぐ紀伊半島では、交通量皆無の林道まで正直手が回らず、復旧は後回しとなっているのが実情だろう。



下記写真は立里集落付近から見下ろした現在地。川は池津川橋付近で流れが滞留、透明度の高い淵を作っており、初夏を思わせる気温に思わず泳ぎたくなってしまう。

2305naratsuika0506.jpg

数時間前、立里小学校の廃校の黒板に書かれた「土曜日は川で水遊び」との文章を読んだが、川とはここをを指すのだろうか。すると子ども達はこれだけの高低差を川遊びのために徒歩で往復していたことになり驚かされる。しかし以前別の山岳集落に住む老人から、子どもの頃は何の疑問も抱かず通学、遊びで日常的に数百mの高低差を往復していたと聞いたことがあり、これが山岳集落民のたくましさなどのだろう

2304R7340107.jpg

このように集落は吊り橋、索道、車道と様々な手段で下界との接続を試みてきたが鉱山閉山後、人口は急減。今やアクセス路を新規に開拓する必要性もなくなり、放棄状態となっている。



紀伊半島の深い山々を徘徊するうちに、次第に半島の暮らしぶりの輪郭がおぼろげながら掴めるようになってきた。そして紀伊半島には「川の道」「山の道」、二つの道があったのではないかと考えるようになった。

川の道。それは紀伊山地を蛇行する十津川、熊野川等などの大河沿いに点在する集落同士を繋いでいた谷底の街道。その後、街道上に国道が敷設され、現在は紀伊半島縦断のメインルートとなっている。
同時に紀伊半島では「山の道」も存在していた。それはこのサイト内でよく登場する下界から隔絶され孤立しているようにも見える山岳集落同士を繋いでいた人道。
紀伊半島山岳集落の地図2305kiihantoumap1.jpg
立里を初めとする山岳集落を訪れると思わず頭に浮かぶのは、どうしてこの不便な場所にといった疑問。しかしその考えは「川の道」沿いに敷設された谷底の国道を車で走る現在からの観点であって、山岳集落同士は尾根づたいに結ばれた人道によって物資運搬・文化交流が行われ、住民はふもとに下ることなく、山上だけで暮らしが成り立っていたのでないか。例えば立里に車道が開通したのはなんと1970年代であり、それまでは徒歩で生活を維持していたのだ。特に紀伊山地においては古来より熊野信仰の参拝路という側面も併せ持っていたため、容易に受け入れられたのだろう。 
紀伊半島山岳集落の変遷地図2305kiihantoumap2.jpg
モータリゼーションの発達に伴い高速道路のような高架橋やトンネルが作られ日々進化を遂げてきた紀伊半島の「川の道」。一方で山岳集落側にも車一台の通行がやっととは言え、下界とを繋ぐ車道が敷設されたことで、「山の道」は次第に失われていった。その後、山岳集落の無人化・廃村化や林業衰退によって、車道自体も目的を失いつつある。紀伊山地を網の目のように走るこのような車道、交通量もほとんどなく、いつまで整備が続けられるのだろうか。

注)上記イメージ図は理解しやすくするために描いた架空の地形図。特にどこの場所という訳でもないが強いて言えば紀伊半島中央部の十津川や野迫川辺りをモデルとしている。例によって勝手な自由研究のため確証は持てません。


2305naratsuika0502.jpg
2305naratsuika0505.jpg

再び、人気のない県道が川沿いに延々と続く。やがて谷間が広がり視界が広がり、目の前に巨大な崖が現れた。山体が山頂部分から大きく崩落している。ここは2011年の台風12号の豪雨がもたらした山体崩壊の跡地。雨を飲み込んだ山塊は山ごと崩壊、膨大な土砂は川と県道を埋めたてた。

2305naratsuika0503.jpg

同じ箇所を10年前に通過した際も復旧工事が行われていたが、あまりに巨大な崩落現場故か、見た目はほとんど変化がないように見え、治山の先は長そうだ。このように2011年豪雨災害の影響は大きく、紀伊半島では現在に至っても各所で爪痕を目にする。

延々と続いた山道も主要道168号線まであとわずか。野迫川村山上からここに至るまで数時間、一度たりとも対向車とすれ違うことはなかった。



ダートとなっている県道を土埃まで巻き上げ走り、つい見えた。高架橋をフルに活用した山岳高規格道路国道168号。ここに合流さえすれば、落石や倒木の心配もなく、バイパス路のような快適な国道を走り順調に帰路につくのだ。168号合流まで残り1km。すると十津川の脇で大勢の警備員が行く手を塞いでいるのが見えた。またゴール直前で通行止めか?。昨夜の悪夢が蘇る。それともここは工事現場で立ち入ってはいけない場所だったのか?

警備員は皆、少し奇妙な、というよりも一瞬戸惑った表情をしながら、人気のない山の中から降りてきた埃まみれの我が車を見つめており、彼らに誘導されるがままに車を進めた。しばらく走ると対向車線は、何かを待ち続ける車やバイクが列をなし停止しており、渋滞のような様相となっていた。

「一体どこから現れたのか」といった表情で、走り抜ける我が車を不思議そうに見つめる停止したままの対向車のドライバー達。何人かは車から降り、警備員と会話をしており、それによって状況が理解できた。

2304R7340108.jpg

紀伊半島を南北に走る国道168号線は、法面崩壊によって数日前から通行止めとなった。要とも言える主要道168号線を封鎖しておくわけにもいかず、平行する十津川の河原が緊急迂回路に指定された。とはいえ河原を走る仮設路のため、片側交互通行が行われており、多くの警備員が動員され河川敷への誘導・車列待機が行われていた。停止したままの車やバイクは開通をひたすら待ち続ける車列だったのだ。
自分は野迫川村の山中から人気のない県道を延々と下り、意図せず封鎖中の迂回路側面に飛び出てきたわけだ。



まもなく国道に合流、広い幅員、緩やかなカーブ、トンネル。道の素晴らしさに感動しながら新緑の紀伊半島を後にした。紀伊半島徘徊三日間。その広大さとアクセスの不便さ故、いつくかの予定地を消化したものの、全てを回りきることは今回もできなかった。

[了]

●2023年2月某日/山中の彷徨。失われた廃校へ二度目の挑戦。

  • 2023/05/30 22:22
  • Category: 廃校
2302wakayamahaikotop.jpg
見渡す限り緑の森が続く紀伊半島の山々、
そのほとんどが杉を植林した人工林となっている。
そんな山の上に残された分校廃校を目指したのはかなり以前の冬のこと。
冬でも葉を落とすことない杉林に眺望を遮られた荒れた道なき山を徘徊、
いや彷徨しあげく廃校の痕跡を何ひとつ見つけることができず撤退、
谷間にひっそりと建つ一軒の民家を尋ね、廃校へのアクセス方法を聞くことができた。
とはいえ疲労困憊、さらに夕刻間近だったこともあって
再び山に登る気も起こらず探索をあきらめ、ふもとへと車で下った。
無駄足に終わったこの時の山中彷徨を記事にしたら、長い文章が書けるのだろうが
なにせ一枚も写真を撮っていないため記事にしようがない。
その後廃校へのアクセスを紹介したサイトの存在を知り、
地元の方からのアドバイスとサイトを手引きに二度目の挑戦を行った。
紀伊半島各所の失われた場所を巡る探索再開からちょうど10年、
その奥深さをさらに実感した徘徊となった。

※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。

和歌山・奈良・三重をまたぐ山岳地帯の谷間を走る狭路を奥地へと遡った。前回の探索時と同じく、道中一台の対向車も現れずに谷の最深部の空き地へ到着、車を停めた。地元の方から指示された廃校への正しい取付口となる場所。結果として前回挑んだ取付口は数百mずれていた。わずかな違いも眺望ゼロの荒れたバリエーションルートを登るにつれその差は広がる一方、いくら山中を彷徨しても見つかるわけがなかった。登山装備に着替え山に足を踏み入れた。



日も射し込まない急勾配の荒れた杉林をひたすら登り続ける。一帯は杉の樹冠が山肌を覆い眺望ゼロ、現在地の把握が難しく何度か外れをくり返した。やがて分岐をくり返していた廃道状態の道の痕跡が、規則性を持ち一定方向に進み始めた。間違いない。山道跡を登り続けやがて頭上に人工物が見えた。

2202ruinsschool0101.jpg
2202ruinsschool0102.jpg

前回、地元の方から話を伺った際には「かなり荒れているぞ」と言われたがその言葉通り、最後は山道も崩落によって途絶えた。建物は間近、薄暗く冷え込む山腹から明るい尾根上に早く出たい。



木々を掴みながら最後の崖をよじ登り尾根上に立つことができた。森に覆われた狭い平地には山小屋を思わせる木造の建物。これが廃校となった分校跡校舎。校舎が崩落していることも想定していたため、予想よりもかなり原形をとどめているなと言った第一印象。荷物を下し息を整えると周囲を観察。

2202ruinsschool0104.jpg
和歌山県の廃校久保野分校廃校2202ruinsschool0103.jpg

校舎が建つのは山塊が各所に伸ばす痩せ尾根の一角、わずかなスペース。地形図上とは異なり、実際に建物脇に立ちこの場所の壮絶な立地を体感、あるいは写真で表現するのは難しい。なぜなら校舎は間際まで木々で覆われ、また両サイドが崖となり切れ落ちているため、引いた状態で建物全体と現在地の高度感を捕らえることができなのだ。



そして現在地を俯瞰した途端、孤独感をひしひしと感じた。ここに至るまで眺望ゼロの森の中をひたすらよじ登ってきたため、周囲の様子や高度感はなにひとつ掴めなかった。

久保野分校廃校2301ruinschooldorne01.jpg

谷底から山腹を登り続け、ようやく辿り着いた現在地は人里離れた山上だった。人工物は見渡す限り何ひとつ存在せず、送電線の鉄塔すら見当たらない。林道もなく、周辺に著名な山もないため登山者すらいない無人地帯。このような場所にかつて子供達が徒歩で通った分校があったとは驚きだ。



森が不自然に窪んでいる箇所(上記矢印)にかろうじて残っている建物。四方から迫る植物の旺盛な繁殖力に飲み込まれつつある校舎屋根は密林に隠された古代遺跡のようにも見える。

和歌山県久保野分校廃校2302ruinschooldorne003.jpg
2202ruinsschool0106.jpg
2202ruinsschool0108.jpg

そんな山上の森に残された廃校。登りきった当初は、予想よりも原形をとどめていると感じたが側面に回ると様子は一変、壁面のほどんどが崩壊し屋根は朽ちた柱によってかろうじて支えられていた。廃校への行き方を尋ねた際に地元の方がつぶやいた「かなり荒れている」という言葉にはアクセス路だけではなく、建物についての言及も含まれていたのかもしれない。

2202ruinsschool0205.jpg

板壁のほとんどが存在しないため外部からでも建物の構造がよくわかる。校舎は片方に廊下を配置し、中央に教室を配する正方形に近い形状。北面は廊下と正面玄関となっており、上記は玄関外から撮ったもの。



紀伊半島に残る多くの廃校を見てきたが、間取り含め和歌山県奥地に点在する分校の形状に似ており、秘境と言える奥地に分校を建てる際の基本フォーマットがあったのだろうか。よく見ると東西で屋根の材質が異なっているため、子どもの増加に併せ増築されたのだろう。

2202ruinsschool0202.jpg
2202ruinsschool0203.jpg

東側の窓から内部を見る。手前の床は崩落しているが、中央には間仕切りのようなものが残っており、当時教室は二つに分けられていたのかも知れない。奥の壁面には黒板が設置されていたのだろうか。

2202ruinsschool0201.jpg

意外だったのは建物がこのような状態になっても窓ガラスの大半は割れずに残っていたこと。下記写真には卒業生が書いたと思われる訪問者に向けた「ガラスを割らないでね」との文字が写っているが、登山を行ってまで破壊を行おうとする輩もいないはず。
太陽高度が低い真冬のためか、ガラス越しに光が射し込む教室は森の中にしては意外に明るく感じた。

2202ruinsschool0109.jpg
2202ruinsschool0302.jpg
2202ruinsschool0303.jpg
2202ruinsschool0301.jpg

外から眺めただけなので、ここが学校であったことを思い起こさせる残留物のようなものは目にすることができなかった。窓枠越しに見える廃校後に訪れた卒業生が室内壁面に書き込んだ平成初期の記念メッセージが唯一の痕跡。
平成初期から30年余りが経過、当時はまだ中高年だった卒業生達も高齢化が進みハードな山道を登れるとは思われず最後の卒業生訪問となったのでなかろうか。



気になるのは教室の床板に無造作に頃がる一升瓶。建物周囲にもいくつもの一升瓶が埋もれており学校らしからぬ残留物。こんな廃瓶は廃村探索時に必ず目にするもの。

2202ruinsschool0204.jpg

某島の廃村を訪れた際は、島に残された大量の一升瓶は真水貯蔵用に使用されていたと聞いたこともあり、廃校周辺の集落の人々が必ずしも酒飲みばかりだとはいえないようだ。



校舎が建つのは痩せ尾根上の一角、東西に細長いわずかな平地。ここでは尾根を削り取り、両側に石垣を積み上げ、子ども達のために少しでも平坦地を確保しようとした苦心の跡がうがえる。
その狭い敷地のほとんどを校舎が占めるが、わずかな空きスペースには錆び付いた遊具が残されており、狭いながらも校庭として機能していた。

2202ruinsschool0305.jpg
2202ruinsschool0307.jpg
2202ruinsschool0306.jpg
2202ruinsschool0105.jpg

少し不思議だったのは杉だらけの山中で校舎周辺だけが別の植栽となっていたこと。ひたすら続く紀伊半島の杉の人工林に辟易していたため、松など別の木々に少し新鮮な気分。



樹冠が頭上を覆い尽す校庭跡。しかし当時、尾根上に位置する分校は眺望と日当たりに恵まれていたのではないだろうか。ここに至るまでの山の斜面では石垣、基礎など耕作地や建物跡の遺構を目にした。いずれも杉に覆われ、日も当たらず薄暗い場所。そんな場所で耕作が行われるはずもなく当時は開けていたはず。

2202ruinsschool0308.jpg
2202ruinsschool0107.jpg

以前も書いたが廃村となった集落では離村時、杉の植林が行われる事が多く、特に紀伊半島では杉林内で生活の痕跡を見ることがある。分校、山腹の集落、耕作地にも離村後、植林がなされ、成長する杉によって光景は次第に覆い隠されていった。

2202ruinsschool0309.jpg

一時中断していた紀伊半島各所の失われた場所を巡る探索を再開したのが2013年、当初3年計画と豪語していたがその広さ故、そして新たなスポットを「発見」してしまうため10年目に入っても一向に終わらないのだ。
そして紀伊半島では、ここ数年でかつて巡った廃校の倒壊が連鎖的に続いているようだ。同時期に建てられた木造校舎は人の手を離れたことで一気に寿命を迎えたのか、多くは屋根の自重に耐えられず中央に向かい自然倒壊するパターン。今回の分校もまもなく廃校となって50年を迎える。いずれ人知れずに倒壊、森へと戻っていくことだろう。

[了]


●2019年3月某日/春を待つ廃校

  • 2019/06/11 22:50
  • Category: 廃校
1903naganotop.jpg
雪に覆われた廃屋が点在する長野県山中の廃村。
冷えきった三月某日、凍結した真冬の林道を歩き続けた奥地に
厳冬期を耐え再び春を迎えつつある木造校舎が人知れずあった。

photo:Canon eos7d 15-85mm

水をたたえたダム湖が連続する長野県梓川。
北アルプスから長野平野へと流れ込む急峻なこの川には電源開発を行うべく戦前からいくつもの発電ダムが建設された。そのため川は流れもなくよどんだ姿をみせている。

1903naganohaiko01.jpg

灰色のアーチダム堰堤脇を抜け主要道から外れると、湖畔に迫る斜面に作られたつづら折りの道を車で上り続ける。ダム湖を遥か眼下に見下ろす頃、斜面に密集する民家が現れた。この集落はダム建設時に沈んだ村の移転先として作られたものだ。



集落を抜け林道を走り続けると周囲の光景は真冬の様相に変化、除雪はされているとはいえ進めなくなるのも時間の問題。やがて行く手は冬期車両通行止の看板とともに封鎖されていた。車を脇に停め徒歩で先を偵察してみたが路面はこの有様。おそろしい凍結具合。

凍結1903naganohaiko02.jpg

ここは素直にUターン、しばらく林道を引き返し路肩の空き地に車を停め徒歩で目的地へ向かう事にした。
風もなく、生き物の気配もなく、もちろん一台の車もなくしんと静まり返った雪の林道を歩き続ける。冬の山がこのように静かなのだと初めて知った。雪にはあまり縁のない地区の人間なのでひたすら珍しい光景。



やがて周囲に古びた民家が次々に現れた。雪に埋もれたその全てが廃屋。先ほどのダム移転によって作られた集落と違いこれらはさらに古くからあったもの。現在は住民が山を離れたことで廃村となった。目的の廃校もこのどこかにあるはず。集落片隅には林道から外れ、山へと続く登山道があった。

1903naganohaiko03.jpg

深い雪に足を取られつつ急な雪道を登って行く。地面を覆っていた雪は次第に消え去り茶褐色の地肌が露になった頃、行く手の森に廃屋が見えた。これが目的の廃校なのか。しかし見上げた斜面上には門柱らしきシルエットが見える。ということは学校はこの先。
杉林を登りきり古び傾いた門柱を抜けると急傾斜の尾根を削り作ったわずかな平地に古びた木造の建物があった。廃校となった分校跡へ到着。

長野の木造校舎廃校1903naganohaiko06.jpg
長野の木造校舎廃校1903naganohaiko05.jpg
1903naganohaiko013.jpg


建物は校舎部分と民家風の建物がL字型に連結された構造となっている。民家風の建物はおそらく教員住宅だろう。校舎に設けられた薄汚れた窓ガラスを透かし中を覗き込むと三つほどの教室がぼんやりと見える。
うまい具合に窓ガラスが破れていたり、窓枠が開いたままの箇所がいくつかあったのでそこからそれぞれの教室跡の様子を見ることができた。
最も南側の教室。がらんとした一見殺風景な教室の真ん中にバランス良く木製の椅子と机が配置されている。中央への配置、少しずれた椅子、窓枠から撮った割にはできすぎた構図。

長野の木造校舎廃校1903naganohaiko011.jpg
長野の木造校舎廃校1903naganohaiko010.jpg

他の教室にも同じようにわずかな机が置かれている。残された机の数が閉校間際の生徒数なのだろうか。北側の教室には古びたオルガンが残されているのが見えた。



標高1,200m、車での乗り入れはできない尾根の斜面に張り付くように立地する廃校。頭上を見渡すと冬でも葉を茂らした杉の木立に赤い屋根の上を覆われているため空撮にも捕らえられていない。枯れた木立の合間からはわずかに冠雪した北アルプスの山々を望むことができた。

設置されていた寒暖計を見ると既に昼過ぎだというのに氷点下5度を指していた。汚れた窓ガラス越しに見える黒ずんだ大型ストーブがこの地の冬の厳しさを物語る。厳冬期にはストーブに赤々と灯を点し授業が行われていたことだろう。


1903nagano.jpg
1903naganohaiko014.jpg

廃校となり人が去ってからも何十回ともなく繰り返してきた冬の季節。この冬も無事に乗り切った廃校だがいずれ人知れず雪の重みで倒壊してしまうのだろうか。



再び冬の林道をひたすら歩き車を回収。川を下り麓にていつくかの建築を見学。
1950年代に建設された刑務所跡。半年程前、新潟県佐渡島で拘置所跡を見学したことが竣工時期はほぼ同じためか構造始め非常に似たつくりとなっている。先程過ごした山の廃校も寒かったがこちらはさらに底冷えを感じる空間。

松本歴史の里刑務所跡1903matsumoto015.jpg
松本歴史の里刑務所跡1903matsumoto013.jpg
松本歴史の里1903matsumoto016.jpg

薄暗い電球に照らし出される歯車や木で組まれた繊細な機械。
これらは生糸の製糸場跡。生糸は明治大正期におけるメイン産業であり長野県にも多数の生産拠点があった。当時日本の輸出品とはいえば現在のような製造業は皆無、ヨーロッパの不作も影響しこのような工場で生産された生糸が外貨獲得の手段となった。

松本歴史の里1903matsumoto012.jpg
松本歴史の里1903matsumoto01.jpg
松本歴史の里1903matsumoto014.jpg
1903naganotsuika03.jpg

本工場は富岡のような大規模なものではなく、主に国内向け生産だったもの。工場閉鎖後ここに移設された。自動化される以前、手作業中心だった当時の雰囲気がよく残されている。


[了]

Pagination

Utility

プロフィール

hou2san

Author:hou2san
失われ行く空間と生まれ行く空間。交錯する2つの光景を記録する。
※掲載内容は訪問時の状態であり、現在は異なっている場合があります。
なにかあれば下記メールフォームで。↓
場所を教えろよなんてことでもいいです。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事

月別アーカイブ