fc2ブログ

●2023年4月某日/紀伊半島、失われ行く痕跡を求めて[後編]。野迫川秘境地帯。

  • 2023/07/04 22:22
  • Category: 廃校
2304tateritop.jpg
三重、和歌山、奈良を跨ぐ紀伊半島山岳地帯徘徊。
南紀に点在する廃校やマニアックな地点を巡り続け、昨夜は山の中で車中泊。
最終日は秘境とも言われる奈良県野迫川村、最果ての尾根の先端に張り付く山岳集落に到着した。
この集落はその特異な立地が自分の興味を引き、以前から定期的に訪れている場所。→LINK
前回と比べどこか変化はあるのだろうか


前回の記事

※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。

最深の地、奈良県野迫川村へ。人口わずか350人、村の総面積のほぼ全てを山岳地帯が占める秘境の地。

2205naramap.jpg

その野迫川村の果て、尾根上の林道を走り続けた先に桃源郷のような集落、立里(たてり)がある。
標高750m、杉林の人工林が切り開かれた山上の斜面に10数棟の民家が張り付いている。建物の多くは荒れてはいるが、現在もわずかながら居住者がおり廃村ではない。

2304tateri0205.jpg

集落中央に残されてた廃校となった立里小学校の木造校舎と小さな校庭。
窓が破れているため、外からでも当時を偲ばせる教室の姿や当時の学校生活の雰囲気を間近に感じることができる。

2304tateri0206.jpg
2304tateri0211.jpg
2304tateri0209.jpg

窓から撮った南面の廊下。プレートを見ると低学年と高学年に分かれ授業が行われていたようだ。壁面には当時の絵画が剥がれることないまま張られており学校生活を垣間見ることが出来る。かつて近辺には鉱山があり、最盛期には多くの子ども達がここで学んでいた。



残されたままのピアノも窓から見える。以前被せられていた赤いピアノカバーが消え去っており、この廃校を初めて訪れて以降、変わらないように見える光景にもわずかながら変化が見られる。しかし卒業生が書き込んだと思われる黒板の印象的な文章だけは消させることもなく残されたまま。鬼ごっこ、川遊びなど当時の子ども達の生き生きとした様子が目に浮かぶ。

奈良県立里小学校跡2304tateri0207.jpg
2305natataterio210.jpg
2304tateri0208.jpg
2304tateri0210.jpg

林道の行き止まり、果てにある立里の立地は壮絶だ。周辺に幹線道路、他の集落は一切存在せず、下界から隔絶された尾根の果てに位置している。
急峻な谷底には最も近い幹線道路といえる県道が走るが2023年現在、両者を直接行き来する手段は失われている。地図で初めて立里の存在を知った際にはその特殊な立地から「ここには何か隠された秘密があるに違いない」と無邪気に感じたものだ。立里集落の維持やアクセス路に関しては後半に様々な痕跡脇を通過したため後述する。



人の気配のない校庭の石段に腰掛け、昨夜Aコープで買って置いたパンをかじる。日当たりも良く静まりかえる集落の居心地の良さに今回もつい長居してしまった。

2304R7340101.jpg

続いて山上の現在地から谷底を目指す。見渡す限り人工物が一切見当たらない紀伊山地の山々。唯一目に入る人工物は県道734号。目的地は上記写真の○印をつけた場所にある池津川橋。季節柄見づらいが、木々が枯れる冬場ならばここから特徴的な橋のトラスを俯瞰できる。両者を直接行き来する手段はなく、○印まで辿り着くには20kmを越える山道の大迂回を強いられる。



一旦野迫川中心地まで林道を延々と逆戻り、ここから分岐する県道734号を下っていく。県道と言っても昨日走った国道425号からも察する通り、小さな落石や荒れた路面が続く離合困難な谷底の山道。鹿の群れも現れる。

2205nosegawamap01.jpg

ここ数日間、紀伊半島の悪路、林道を走り回ったため、その程度ならば何とも思わないがカーブを曲がった瞬間、目に飛び込んだ杉の倒木が行く手を塞ぐ光景にはさすがに驚かされた。周囲にはホコリや花粉が舞い上がっているため杉は倒れたばかりに見える。未だトラウマとなっている幼少期読んだ児童文学ズッコケ山賊修行中[→LINK]冒頭で登場する土蜘蛛族の襲撃のシーンと同じ状況。

倒木は道を塞ぎ迂回スペースはゼロ、再び野迫川山上に戻り別ルートへ迂回すれば半日近いロスとなる。車から降りると車高をチェック、山側から倒れ込んだ杉は大木と言うほどでもなく、谷底側に向かい直径を細めているため先端付近ならば乗り越えられるかもしれない。失敗すれば車体裏に幹や枝や引っかかり動けなくなる。まずは力の限り倒木を押し込み枝を折り、車輪を谷底ギリギリに移動、四駆をフルに使い、同時に慎重に乗り越えた。

2304iketsugawa0101.jpg

kii03.jpg
ひたすら続く県道734号。道中通過した谷間の小集落、池津川。県道は20棟ほどの民家の中央を通過している。こちらは立里とは違い深い谷底、また洗濯物等からも生活の気配を感じることができる。ここにも廃校となった小学校校舎が残されている。

廃校池津川小学校跡2304iketsugawa0106.jpg
池津川小学校跡2304iketsugawa0104.jpg
2304iketsugawa0103.jpg
2305naratsuika0501.jpg


池津川小学校の立地は少し変わっており、小さな丘の上にこじんまりとした平屋の校舎がぴったりとおさまっている。急勾配の階段を登り、ガラス越しに室内を覗くと生徒が書いた絵画がわずかに見えた。このような子どもの作品も、先ほどの黒板文字を含め当時の生活をうかがい知る貴重な資料だったりする。

2304iketsugawa0108.jpg
奈良廃校2304iketsugawa0107.jpg

意外だったのは小さな校舎にそぐわない校庭の広さ。山岳集落、斜面集落、谷底集落で困難なのが平地の確保。貴重な平地のほとんどは農地〜居住区画の順に優先利用されており、そのような場所を訪れた際には車を停めるスペースにも難儀することが多いのだが、ここは校庭が広大で駐車場所には困ることはことはなかった。すぐ近くには木造校舎を思わせる建物が残されており、こちらは初期の学校だったのかもしれない。



池津川を発つとここから15km区間、一棟の民家も現れない狭い山道が延々と続く。県道と並行して流れる池津川の川幅も広がり渓流から渓谷の様相へ。このあたりの川辺には鉱山施設跡や有名な廃村中津川がある。 

県道734号2304iketsugawa0102.jpg
2304R7340103.jpg

現在地は数時間前まで滞在していた立里集落まで直線距離で600m、最短地点にあたる場所。山上の○印は先ほどこの場所を俯瞰して撮った林道立里線。しかし現在地と立里との間は池津川と500m近い標高差、そして絶望的な距離で隔てられており、ここからあの場所へ到達するには23kmの山道を延々と走り続ける必要がある。



ここまで共に下ってきた池津川はまもなく川原桶川と合流する。2つの川の合流地点には下界と隔絶されたように見える立里のアクセスを偲ばせる様々な遺構が集中、非常に興味深いポイントでもあり、順を追って説明する。 

奈良県野迫川村立里地図2305nosegawamap2.jpg


●遺構その1 [廃吊り橋]

立里の吊橋2304R7340102.jpg

池津川に架けられた吊り橋。メインケーブルは維持されているが踏み板は崩落、廃吊り橋となっており現在は渡ることはできない。この廃吊り橋はかつて立里と県道とを直接結んだ人道であった。地理院地図に急勾配の人道が集落から吊り橋まで表記されていたため、以前しばらく下ったことがあったが痕跡は割と明瞭、吊り橋さえ生きていれば現在も徒歩でなら通行できそうなのだが。

●遺構その2 [未成路]未開通区間

道上垣内立里線2305naratsuika0504.jpg

廃吊り橋の近くには近年になって立里集落まで通じる林道と734号線を、上下から車道で直接接続しようと試みた痕跡も残されている。吹付法面を贅沢に使用した立派な道路なのだが、工事自体動きも見られず未成路のように感じる。特に規制もされていなかったので徒歩で少し偵察してみたがこの先は崩落しているようだった。それでも工事看板の占有期間が更新されていたため、放棄されたわけでもないのだろうか。

●遺構その3 [索道跡]

2304naratateri02.jpg

立里集落への物資運搬には索道(ロープウェイ)も使用されていた。県道脇の茂みの中、錆び付いた発着場から伸びるケーブルはまだ生きており、遙か山上の尾根へと消えていった。ちなみに山頂駅は現在もその姿を見ることができる。
このような索道は、山岳集落では特に珍しいものではなく、紀伊半島においては明治〜大正期における全盛期には索道会社が乱立、中には全長15kmを越える巨大索道もあった。これら索道群は道路網の整備と共に衰退、姿を消していったが、鉱山のあった立里の索道は割と近年まで使用されていたと思われる。


●遺構その4 [池津川橋]

新緑に包まれるトラス。合流地点でもっとも目立つ遺構は林道川原桶川線へと続く池津川橋。これがなぜ遺構なのか。それは現在、池津川橋は封鎖され渡ることができないからだ。

2304R7340105.jpg
池津川橋2304naratateri03.jpg

看板には「冬期の間通行止め」と書かれているが、この先に続く林道川原桶川線は崩落によって通行できない状態となっており、冬期以外も開通している姿を見たことはない。周辺でも山体崩壊が相次ぐ紀伊半島では、交通量皆無の林道まで正直手が回らず、復旧は後回しとなっているのが実情だろう。



下記写真は立里集落付近から見下ろした現在地。川は池津川橋付近で流れが滞留、透明度の高い淵を作っており、初夏を思わせる気温に思わず泳ぎたくなってしまう。

2305naratsuika0506.jpg

数時間前、立里小学校の廃校の黒板に書かれた「土曜日は川で水遊び」との文章を読んだが、川とはここをを指すのだろうか。すると子ども達はこれだけの高低差を川遊びのために徒歩で往復していたことになり驚かされる。しかし以前別の山岳集落に住む老人から、子どもの頃は何の疑問も抱かず通学、遊びで日常的に数百mの高低差を往復していたと聞いたことがあり、これが山岳集落民のたくましさなどのだろう

2304R7340107.jpg

このように集落は吊り橋、索道、車道と様々な手段で下界との接続を試みてきたが鉱山閉山後、人口は急減。今やアクセス路を新規に開拓する必要性もなくなり、放棄状態となっている。



紀伊半島の深い山々を徘徊するうちに、次第に半島の暮らしぶりの輪郭がおぼろげながら掴めるようになってきた。そして紀伊半島には「川の道」「山の道」、二つの道があったのではないかと考えるようになった。

川の道。それは紀伊山地を蛇行する十津川、熊野川等などの大河沿いに点在する集落同士を繋いでいた谷底の街道。その後、街道上に国道が敷設され、現在は紀伊半島縦断のメインルートとなっている。
同時に紀伊半島では「山の道」も存在していた。それはこのサイト内でよく登場する下界から隔絶され孤立しているようにも見える山岳集落同士を繋いでいた人道。
紀伊半島山岳集落の地図2305kiihantoumap1.jpg
立里を初めとする山岳集落を訪れると思わず頭に浮かぶのは、どうしてこの不便な場所にといった疑問。しかしその考えは「川の道」沿いに敷設された谷底の国道を車で走る現在からの観点であって、山岳集落同士は尾根づたいに結ばれた人道によって物資運搬・文化交流が行われ、住民はふもとに下ることなく、山上だけで暮らしが成り立っていたのでないか。例えば立里に車道が開通したのはなんと1970年代であり、それまでは徒歩で生活を維持していたのだ。特に紀伊山地においては古来より熊野信仰の参拝路という側面も併せ持っていたため、容易に受け入れられたのだろう。 
紀伊半島山岳集落の変遷地図2305kiihantoumap2.jpg
モータリゼーションの発達に伴い高速道路のような高架橋やトンネルが作られ日々進化を遂げてきた紀伊半島の「川の道」。一方で山岳集落側にも車一台の通行がやっととは言え、下界とを繋ぐ車道が敷設されたことで、「山の道」は次第に失われていった。その後、山岳集落の無人化・廃村化や林業衰退によって、車道自体も目的を失いつつある。紀伊山地を網の目のように走るこのような車道、交通量もほとんどなく、いつまで整備が続けられるのだろうか。

注)上記イメージ図は理解しやすくするために描いた架空の地形図。特にどこの場所という訳でもないが強いて言えば紀伊半島中央部の十津川や野迫川辺りをモデルとしている。例によって勝手な自由研究のため確証は持てません。


2305naratsuika0502.jpg
2305naratsuika0505.jpg

再び、人気のない県道が川沿いに延々と続く。やがて谷間が広がり視界が広がり、目の前に巨大な崖が現れた。山体が山頂部分から大きく崩落している。ここは2011年の台風12号の豪雨がもたらした山体崩壊の跡地。雨を飲み込んだ山塊は山ごと崩壊、膨大な土砂は川と県道を埋めたてた。

2305naratsuika0503.jpg

同じ箇所を10年前に通過した際も復旧工事が行われていたが、あまりに巨大な崩落現場故か、見た目はほとんど変化がないように見え、治山の先は長そうだ。このように2011年豪雨災害の影響は大きく、紀伊半島では現在に至っても各所で爪痕を目にする。

延々と続いた山道も主要道168号線まであとわずか。野迫川村山上からここに至るまで数時間、一度たりとも対向車とすれ違うことはなかった。



ダートとなっている県道を土埃まで巻き上げ走り、つい見えた。高架橋をフルに活用した山岳高規格道路国道168号。ここに合流さえすれば、落石や倒木の心配もなく、バイパス路のような快適な国道を走り順調に帰路につくのだ。168号合流まで残り1km。すると十津川の脇で大勢の警備員が行く手を塞いでいるのが見えた。またゴール直前で通行止めか?。昨夜の悪夢が蘇る。それともここは工事現場で立ち入ってはいけない場所だったのか?

警備員は皆、少し奇妙な、というよりも一瞬戸惑った表情をしながら、人気のない山の中から降りてきた埃まみれの我が車を見つめており、彼らに誘導されるがままに車を進めた。しばらく走ると対向車線は、何かを待ち続ける車やバイクが列をなし停止しており、渋滞のような様相となっていた。

「一体どこから現れたのか」といった表情で、走り抜ける我が車を不思議そうに見つめる停止したままの対向車のドライバー達。何人かは車から降り、警備員と会話をしており、それによって状況が理解できた。

2304R7340108.jpg

紀伊半島を南北に走る国道168号線は、法面崩壊によって数日前から通行止めとなった。要とも言える主要道168号線を封鎖しておくわけにもいかず、平行する十津川の河原が緊急迂回路に指定された。とはいえ河原を走る仮設路のため、片側交互通行が行われており、多くの警備員が動員され河川敷への誘導・車列待機が行われていた。停止したままの車やバイクは開通をひたすら待ち続ける車列だったのだ。
自分は野迫川村の山中から人気のない県道を延々と下り、意図せず封鎖中の迂回路側面に飛び出てきたわけだ。



まもなく国道に合流、広い幅員、緩やかなカーブ、トンネル。道の素晴らしさに感動しながら新緑の紀伊半島を後にした。紀伊半島徘徊三日間。その広大さとアクセスの不便さ故、いつくかの予定地を消化したものの、全てを回りきることは今回もできなかった。

[了]

スポンサーサイト



●2023年2月某日/山中の彷徨。失われた廃校へ二度目の挑戦。

  • 2023/05/30 22:22
  • Category: 廃校
2302wakayamahaikotop.jpg
見渡す限り緑の森が続く紀伊半島の山々、
そのほとんどが杉を植林した人工林となっている。
そんな山の上に残された分校廃校を目指したのはかなり以前の冬のこと。
冬でも葉を落とすことない杉林に眺望を遮られた荒れた道なき山を徘徊、
いや彷徨しあげく廃校の痕跡を何ひとつ見つけることができず撤退、
谷間にひっそりと建つ一軒の民家を尋ね、廃校へのアクセス方法を聞くことができた。
とはいえ疲労困憊、さらに夕刻間近だったこともあって
再び山に登る気も起こらず探索をあきらめ、ふもとへと車で下った。
無駄足に終わったこの時の山中彷徨を記事にしたら、長い文章が書けるのだろうが
なにせ一枚も写真を撮っていないため記事にしようがない。
その後廃校へのアクセスを紹介したサイトの存在を知り、
地元の方からのアドバイスとサイトを手引きに二度目の挑戦を行った。
紀伊半島各所の失われた場所を巡る探索再開からちょうど10年、
その奥深さをさらに実感した徘徊となった。

※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。

和歌山・奈良・三重をまたぐ山岳地帯の谷間を走る狭路を奥地へと遡った。前回の探索時と同じく、道中一台の対向車も現れずに谷の最深部の空き地へ到着、車を停めた。地元の方から指示された廃校への正しい取付口となる場所。結果として前回挑んだ取付口は数百mずれていた。わずかな違いも眺望ゼロの荒れたバリエーションルートを登るにつれその差は広がる一方、いくら山中を彷徨しても見つかるわけがなかった。登山装備に着替え山に足を踏み入れた。



日も射し込まない急勾配の荒れた杉林をひたすら登り続ける。一帯は杉の樹冠が山肌を覆い眺望ゼロ、現在地の把握が難しく何度か外れをくり返した。やがて分岐をくり返していた廃道状態の道の痕跡が、規則性を持ち一定方向に進み始めた。間違いない。山道跡を登り続けやがて頭上に人工物が見えた。

2202ruinsschool0101.jpg
2202ruinsschool0102.jpg

前回、地元の方から話を伺った際には「かなり荒れているぞ」と言われたがその言葉通り、最後は山道も崩落によって途絶えた。建物は間近、薄暗く冷え込む山腹から明るい尾根上に早く出たい。



木々を掴みながら最後の崖をよじ登り尾根上に立つことができた。森に覆われた狭い平地には山小屋を思わせる木造の建物。これが廃校となった分校跡校舎。校舎が崩落していることも想定していたため、予想よりもかなり原形をとどめているなと言った第一印象。荷物を下し息を整えると周囲を観察。

2202ruinsschool0104.jpg
和歌山県の廃校久保野分校廃校2202ruinsschool0103.jpg

校舎が建つのは山塊が各所に伸ばす痩せ尾根の一角、わずかなスペース。地形図上とは異なり、実際に建物脇に立ちこの場所の壮絶な立地を体感、あるいは写真で表現するのは難しい。なぜなら校舎は間際まで木々で覆われ、また両サイドが崖となり切れ落ちているため、引いた状態で建物全体と現在地の高度感を捕らえることができなのだ。



そして現在地を俯瞰した途端、孤独感をひしひしと感じた。ここに至るまで眺望ゼロの森の中をひたすらよじ登ってきたため、周囲の様子や高度感はなにひとつ掴めなかった。

久保野分校廃校2301ruinschooldorne01.jpg

谷底から山腹を登り続け、ようやく辿り着いた現在地は人里離れた山上だった。人工物は見渡す限り何ひとつ存在せず、送電線の鉄塔すら見当たらない。林道もなく、周辺に著名な山もないため登山者すらいない無人地帯。このような場所にかつて子供達が徒歩で通った分校があったとは驚きだ。



森が不自然に窪んでいる箇所(上記矢印)にかろうじて残っている建物。四方から迫る植物の旺盛な繁殖力に飲み込まれつつある校舎屋根は密林に隠された古代遺跡のようにも見える。

和歌山県久保野分校廃校2302ruinschooldorne003.jpg
2202ruinsschool0106.jpg
2202ruinsschool0108.jpg

そんな山上の森に残された廃校。登りきった当初は、予想よりも原形をとどめていると感じたが側面に回ると様子は一変、壁面のほどんどが崩壊し屋根は朽ちた柱によってかろうじて支えられていた。廃校への行き方を尋ねた際に地元の方がつぶやいた「かなり荒れている」という言葉にはアクセス路だけではなく、建物についての言及も含まれていたのかもしれない。

2202ruinsschool0205.jpg

板壁のほとんどが存在しないため外部からでも建物の構造がよくわかる。校舎は片方に廊下を配置し、中央に教室を配する正方形に近い形状。北面は廊下と正面玄関となっており、上記は玄関外から撮ったもの。



紀伊半島に残る多くの廃校を見てきたが、間取り含め和歌山県奥地に点在する分校の形状に似ており、秘境と言える奥地に分校を建てる際の基本フォーマットがあったのだろうか。よく見ると東西で屋根の材質が異なっているため、子どもの増加に併せ増築されたのだろう。

2202ruinsschool0202.jpg
2202ruinsschool0203.jpg

東側の窓から内部を見る。手前の床は崩落しているが、中央には間仕切りのようなものが残っており、当時教室は二つに分けられていたのかも知れない。奥の壁面には黒板が設置されていたのだろうか。

2202ruinsschool0201.jpg

意外だったのは建物がこのような状態になっても窓ガラスの大半は割れずに残っていたこと。下記写真には卒業生が書いたと思われる訪問者に向けた「ガラスを割らないでね」との文字が写っているが、登山を行ってまで破壊を行おうとする輩もいないはず。
太陽高度が低い真冬のためか、ガラス越しに光が射し込む教室は森の中にしては意外に明るく感じた。

2202ruinsschool0109.jpg
2202ruinsschool0302.jpg
2202ruinsschool0303.jpg
2202ruinsschool0301.jpg

外から眺めただけなので、ここが学校であったことを思い起こさせる残留物のようなものは目にすることができなかった。窓枠越しに見える廃校後に訪れた卒業生が室内壁面に書き込んだ平成初期の記念メッセージが唯一の痕跡。
平成初期から30年余りが経過、当時はまだ中高年だった卒業生達も高齢化が進みハードな山道を登れるとは思われず最後の卒業生訪問となったのでなかろうか。



気になるのは教室の床板に無造作に頃がる一升瓶。建物周囲にもいくつもの一升瓶が埋もれており学校らしからぬ残留物。こんな廃瓶は廃村探索時に必ず目にするもの。

2202ruinsschool0204.jpg

某島の廃村を訪れた際は、島に残された大量の一升瓶は真水貯蔵用に使用されていたと聞いたこともあり、廃校周辺の集落の人々が必ずしも酒飲みばかりだとはいえないようだ。



校舎が建つのは痩せ尾根上の一角、東西に細長いわずかな平地。ここでは尾根を削り取り、両側に石垣を積み上げ、子ども達のために少しでも平坦地を確保しようとした苦心の跡がうがえる。
その狭い敷地のほとんどを校舎が占めるが、わずかな空きスペースには錆び付いた遊具が残されており、狭いながらも校庭として機能していた。

2202ruinsschool0305.jpg
2202ruinsschool0307.jpg
2202ruinsschool0306.jpg
2202ruinsschool0105.jpg

少し不思議だったのは杉だらけの山中で校舎周辺だけが別の植栽となっていたこと。ひたすら続く紀伊半島の杉の人工林に辟易していたため、松など別の木々に少し新鮮な気分。



樹冠が頭上を覆い尽す校庭跡。しかし当時、尾根上に位置する分校は眺望と日当たりに恵まれていたのではないだろうか。ここに至るまでの山の斜面では石垣、基礎など耕作地や建物跡の遺構を目にした。いずれも杉に覆われ、日も当たらず薄暗い場所。そんな場所で耕作が行われるはずもなく当時は開けていたはず。

2202ruinsschool0308.jpg
2202ruinsschool0107.jpg

以前も書いたが廃村となった集落では離村時、杉の植林が行われる事が多く、特に紀伊半島では杉林内で生活の痕跡を見ることがある。分校、山腹の集落、耕作地にも離村後、植林がなされ、成長する杉によって光景は次第に覆い隠されていった。

2202ruinsschool0309.jpg

一時中断していた紀伊半島各所の失われた場所を巡る探索を再開したのが2013年、当初3年計画と豪語していたがその広さ故、そして新たなスポットを「発見」してしまうため10年目に入っても一向に終わらないのだ。
そして紀伊半島では、ここ数年でかつて巡った廃校の倒壊が連鎖的に続いているようだ。同時期に建てられた木造校舎は人の手を離れたことで一気に寿命を迎えたのか、多くは屋根の自重に耐えられず中央に向かい自然倒壊するパターン。今回の分校もまもなく廃校となって50年を迎える。いずれ人知れずに倒壊、森へと戻っていくことだろう。

[了]


●2019年3月某日/春を待つ廃校

  • 2019/06/11 22:50
  • Category: 廃校
1903naganotop.jpg
雪に覆われた廃屋が点在する長野県山中の廃村。
冷えきった三月某日、凍結した真冬の林道を歩き続けた奥地に
厳冬期を耐え再び春を迎えつつある木造校舎が人知れずあった。

photo:Canon eos7d 15-85mm

水をたたえたダム湖が連続する長野県梓川。
北アルプスから長野平野へと流れ込む急峻なこの川には電源開発を行うべく戦前からいくつもの発電ダムが建設された。そのため川は流れもなくよどんだ姿をみせている。

1903naganohaiko01.jpg

灰色のアーチダム堰堤脇を抜け主要道から外れると、湖畔に迫る斜面に作られたつづら折りの道を車で上り続ける。ダム湖を遥か眼下に見下ろす頃、斜面に密集する民家が現れた。この集落はダム建設時に沈んだ村の移転先として作られたものだ。



集落を抜け林道を走り続けると周囲の光景は真冬の様相に変化、除雪はされているとはいえ進めなくなるのも時間の問題。やがて行く手は冬期車両通行止の看板とともに封鎖されていた。車を脇に停め徒歩で先を偵察してみたが路面はこの有様。おそろしい凍結具合。

凍結1903naganohaiko02.jpg

ここは素直にUターン、しばらく林道を引き返し路肩の空き地に車を停め徒歩で目的地へ向かう事にした。
風もなく、生き物の気配もなく、もちろん一台の車もなくしんと静まり返った雪の林道を歩き続ける。冬の山がこのように静かなのだと初めて知った。雪にはあまり縁のない地区の人間なのでひたすら珍しい光景。



やがて周囲に古びた民家が次々に現れた。雪に埋もれたその全てが廃屋。先ほどのダム移転によって作られた集落と違いこれらはさらに古くからあったもの。現在は住民が山を離れたことで廃村となった。目的の廃校もこのどこかにあるはず。集落片隅には林道から外れ、山へと続く登山道があった。

1903naganohaiko03.jpg

深い雪に足を取られつつ急な雪道を登って行く。地面を覆っていた雪は次第に消え去り茶褐色の地肌が露になった頃、行く手の森に廃屋が見えた。これが目的の廃校なのか。しかし見上げた斜面上には門柱らしきシルエットが見える。ということは学校はこの先。
杉林を登りきり古び傾いた門柱を抜けると急傾斜の尾根を削り作ったわずかな平地に古びた木造の建物があった。廃校となった分校跡へ到着。

長野の木造校舎廃校1903naganohaiko06.jpg
長野の木造校舎廃校1903naganohaiko05.jpg
1903naganohaiko013.jpg


建物は校舎部分と民家風の建物がL字型に連結された構造となっている。民家風の建物はおそらく教員住宅だろう。校舎に設けられた薄汚れた窓ガラスを透かし中を覗き込むと三つほどの教室がぼんやりと見える。
うまい具合に窓ガラスが破れていたり、窓枠が開いたままの箇所がいくつかあったのでそこからそれぞれの教室跡の様子を見ることができた。
最も南側の教室。がらんとした一見殺風景な教室の真ん中にバランス良く木製の椅子と机が配置されている。中央への配置、少しずれた椅子、窓枠から撮った割にはできすぎた構図。

長野の木造校舎廃校1903naganohaiko011.jpg
長野の木造校舎廃校1903naganohaiko010.jpg

他の教室にも同じようにわずかな机が置かれている。残された机の数が閉校間際の生徒数なのだろうか。北側の教室には古びたオルガンが残されているのが見えた。



標高1,200m、車での乗り入れはできない尾根の斜面に張り付くように立地する廃校。頭上を見渡すと冬でも葉を茂らした杉の木立に赤い屋根の上を覆われているため空撮にも捕らえられていない。枯れた木立の合間からはわずかに冠雪した北アルプスの山々を望むことができた。

設置されていた寒暖計を見ると既に昼過ぎだというのに氷点下5度を指していた。汚れた窓ガラス越しに見える黒ずんだ大型ストーブがこの地の冬の厳しさを物語る。厳冬期にはストーブに赤々と灯を点し授業が行われていたことだろう。


1903nagano.jpg
1903naganohaiko014.jpg

廃校となり人が去ってからも何十回ともなく繰り返してきた冬の季節。この冬も無事に乗り切った廃校だがいずれ人知れず雪の重みで倒壊してしまうのだろうか。



再び冬の林道をひたすら歩き車を回収。川を下り麓にていつくかの建築を見学。
1950年代に建設された刑務所跡。半年程前、新潟県佐渡島で拘置所跡を見学したことが竣工時期はほぼ同じためか構造始め非常に似たつくりとなっている。先程過ごした山の廃校も寒かったがこちらはさらに底冷えを感じる空間。

松本歴史の里刑務所跡1903matsumoto015.jpg
松本歴史の里刑務所跡1903matsumoto013.jpg
松本歴史の里1903matsumoto016.jpg

薄暗い電球に照らし出される歯車や木で組まれた繊細な機械。
これらは生糸の製糸場跡。生糸は明治大正期におけるメイン産業であり長野県にも多数の生産拠点があった。当時日本の輸出品とはいえば現在のような製造業は皆無、ヨーロッパの不作も影響しこのような工場で生産された生糸が外貨獲得の手段となった。

松本歴史の里1903matsumoto012.jpg
松本歴史の里1903matsumoto01.jpg
松本歴史の里1903matsumoto014.jpg
1903naganotsuika03.jpg

本工場は富岡のような大規模なものではなく、主に国内向け生産だったもの。工場閉鎖後ここに移設された。自動化される以前、手作業中心だった当時の雰囲気がよく残されている。


[了]

●2018年8月某日/夏の廃校に泊まる

  • 2019/01/06 18:01
  • Category: 廃校
1808touhokutop.jpg
青森県津軽半島の先端、竜飛崎のキャンプ場で朝を迎えた。
何度ここで朝を迎えた事か。相変わらず素晴らしい場所だった。
「北の果て」を目指すという目的は終わったので
細かい場所に立ち寄りながら夏の東北大陸を南下開始。


photo:Canon eos7d 15-85mm

前回の記事

1808yamagata01.jpg


長かった夏の日が傾き、広大な田圃が金色の光に包まれる。青森県の竜飛崎から二日をかけ南下を続け山形県へと辿り着いた。田圃に囲まれたのどかな里山の片隅には古びた木造二階建ての建物が見える。この建物は30年ほど前に廃校となった分校の木造校舎。
今夜はこの廃校に泊まるのだ。

1808yamagata02.jpg
山形の廃校1808yamagata03.jpg

午後4時、「廃校」に到着した。草原のようになった緑の校庭へ車を乗り入れ、見回しても周囲は静まりかえり人の気配は皆無。
鍵もかかっていない木造校舎の古びた扉をガラガラと開き、中に向かい何度も呼びかけても誰も出て来ない。仕方がないので校庭で遊ぶこと1時間、ようやく軽トラに乗った管理人が現れた。これまでも数多くの廃校に宿泊してきたがその安さ故か適当な場所が多かった。ここも予想通りなかなか適当な感じだ。だがそれが良い。



この廃校、体育館を含め三つほどの建物が作るL字型の集合体となっておりその規模も大きい。閉校から30年余りが経過、現在は地元の会合等で時折使用されている形跡はあるものの、老朽化は否めずまるで廃墟に泊まっているかのような気分だ。
ボールが散乱する体育館跡で遊んだり、図書室に残された本を読んだりと時間を過ごす。

山形の廃校1808yamagata10.jpg
山形の廃校1808yamagata09.jpg
山形の廃校1808yamagata07.jpg
1808yamagata06.jpg
1808yamagata05.jpg

当然ながら他に宿泊客の姿もなく、寝る部屋もどこでも良いとのことなので木造校舎の1階、2階の全ての部屋を見て回り最も居心地の良さそうな部屋に決めた。
寝る部屋は黒板が残された1階の元教室。部屋の片隅に山積みとなった布団から自分の分を引っ張り出し広大な部屋の中央部に敷く。スーパーで買い出しをした食材を食べているうちに日は沈み里山は闇に包まれた。

1808yamagata08.jpg

やがて管理人も帰宅し巨大な廃校は貸し切り状態となった。教室のカーテンを開けると窓には漏れる明かりに集まった無数の羽虫がびっしりと張り付いていた。田舎育ちなのでそのような光景を見てもなんとも思わないが苦手な人は悲鳴を上げてしまうかもしれない。街灯下には同じように光に集まったクワガタを見る事もできた。

夜も更けると、校舎の灯りを全て落とし真っ暗となった校庭で星を見る。無数の夏の星座。価格も非常に安く勝手気ままに過ごせる自由度の高い廃校の宿。とても気に入ってしまった。




青森から南下する道中立ち寄った場所のひとつ、宮城県山中にある不思議な色をたたえた池、潟沼。
以前から地形図で気になっていたこの場所を今回ようやく訪れる事ができた。森が切れ視界が開ける同時にグリーンの湖面が現れた。潟沼は数日前訪れた十和田湖と同じ火山が作り出したカルデラ湖。そのため周囲を丸ごと山に囲まれた窪地となっており流れ出す川もない。

潟沼1808katanuma03.jpg
潟沼1808katanuma01.jpg

遥か対岸に見える砂浜のような場所が気になり、湖畔に沿って草むらを歩き出した。波もない凪状態の鮮やかな湖面。静かに広がるボートの航跡。



そんな美しく静かな潟沼に響き渡る不気味な音。間違いなく銃声だ。猟銃かと思いつつ後に地図を見ると潟沼の対岸に射撃場があった。美しい光景と不釣り合いなシュールな音。定期的に湖上に響く銃声を聞きながら湖畔を歩き先ほどみた「砂浜」に到着。

潟沼1808katanuma02.jpg

そこは白い砂が堆積する場所だった。南国のビーチを彷彿とさせる風景。水に足をつけてみたいものだが、看板によれば潟沼の水質は火山活動の結果、非常に強い酸性となっている。まさか酸の湖のように身体が溶けてしまう事がないだろうな、思いながらおそるおそる素足をつけてみると以外に心地良いぬるめの水だった。




宮城、山形、新潟。他にも各所を巡りながら広大な東北地方をだらだらと南下。

1808yamagata04.jpg1808tohokuother02.jpg
1808tohokuother01.jpg
1808tohokuother04.jpg
1808tohokuother03.jpg

夜が迫った日本海の街は赤く染まる不気味な雷雲に包まれていた。雲の中を音もなく稲光が走り続ける。
そろそろ今回の旅を終えるか。

[了]



●2018年3月某日/秘境集落、立里集落、廃校立里小学校再訪記。

  • 2018/04/29 22:40
  • Category: 廃校
1803tateritop.jpg
紀伊半島。奈良、和歌山、三重3県が作り出す広大な土地のほとんどは山岳地帯である。
四国祖谷、宮崎椎葉村と並び秘境集落、山岳集落の宝庫と言われる紀伊半島の中でも
最も下界と隔絶されているのではないかと思われるのが
奈良県野迫川村山中にある立里集落だ。
紀伊山地の最深部、抜け道のないどん詰まりの林道を
ひたすら走り続けた終点にある十棟ほどの民家と廃校。

秘境集落野迫川村立里地図1803tateri1map2.jpg
立里集落の場所を示す。地図上ではわずかの距離を県道が通るが、不思議な事に直通路はなく
立里を訪れるには標高1200mの山を越える大迂回を強いられることになる。

この集落の存在を知ったのは遡る事20年近く前、師匠ともいえる人物からの情報だった。
道路地図を広げ見つけた訪問者を拒むかのような隔絶された立地に魅力を感じ
それから10年余り過ぎた2007年夏、苦労の末、実際に現地を訪れる事ができた。
残念ながら当日は土砂降りの雨に見舞われてしまったためその後も挑戦を続けたものの、
そのアクセスのあまりの悪さ故、何度も敗退する羽目となった。
最近では2017年末に積雪によって断念させられた秘境集落、春の訪れを待ち再挑戦を行った。

photo:Canon eos7d 15-85mm
※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。


web2007.jpg
2007年夏の立里訪問記

2018年春。紀伊半島は二ヶ月前の極寒の日が嘘のような陽気に包まれていた。
紀伊半島最深部に存在する立里集落目指し、まずは林道の起点がある野迫川村中心部へ。核心部はまだ10数キロも先だというのに道は既に「険道」の様相を呈している。曲がりくねった狭隘な山道をひたすら登り続け稜線へ登りきると視界が開け広大な紀伊山地の風景が広がった。このあたりが野迫川村中心部となる。見渡す限りの山。その一画に目的地の立里はある。

1803tateri01.jpg
1803tateri02.jpg

目を凝らすと山の一角には隔絶された民家が見える。目的地のものではないが、秘境集落の宝庫でもある紀伊半島ではこのように小規模な集落が広範囲に点在している。



奈良県野迫川村。奈良県といったキーワードから人々がイメージするものは大仏に代表される寺社仏閣や古墳ではなかろうか。しかし2/3以上を森林が占めるという奈良県の実態はあまり知られていない。野迫川はその南端にある山村。人口わずか400人。広大な面積を持ちながらそのほぼ全てが山林で覆われ可住可能面積はわずか2%。

立里集落は野迫川村中心部から南東へ突き出た荒神岳山系が形成する尾根の南端に位置する。
稜線を走る県道から分岐する集落への唯一のアクセス路、林道上垣内立里線へと入った。立里へは山越の必要があるためしばらくの間、急な登り道が続く。その途中には立里荒神社、さらに進んだ場所にあった宿は閉鎖され廃墟と化していた。

1803tateri03.jpg

廃ホテル周辺は行程の中で最も高地にあたり、地形図によれば標高は1200mを越えている。春だとはいえ道路脇では涌き水が凍り付き日影には雪が残されている。冬期通行困難な奥地において集落ではどのように生活が営まれているのだろうか。



ここから先は立里集落に用がある人間しか立ち入らない道。脇の看板にも立里と共にこの先行き止りと書かれている。
薄暗い杉木立の森に続く古びた林道を走り続け尾根先端へと到着、ここから立里までは標高差400mを一気に下る。道は上り詰めた山を容赦なく下り続ける。前回はこのあたりで土砂降りの雨に見舞われスリップの恐怖に覚えながら水が溢れる急坂を下り続けた記憶がある。
曲がりくねった林道を下り続け、集落まで残り数百メートル。到着直前、崩落したガレ場を通過、視界が開けた。集落からの眺望が得られない事はかつて訪れた際の経験から既に知っているのでここで一旦車を停め地形を観察した。

1803tateri05.jpg

広がるのは東方面の紀伊山地。見渡す限りの山々、蛇行する川が削り取った急峻な谷。遥か彼方で冠雪している山は大台ケ原だろうか。眼下の谷底には見覚えのある錆びたトラス橋が見える。その名は池津川橋。遠目にはわからないが実態は朽ち果て通行止め。橋を渡り、南へと続く林道川原桶川線は崩落のため通行不能、復旧が行われている気配もなく廃道と化している。

1803tateri04.jpg

写真に写る県道734号は立里から最も近距離にある「まともな」道である。と言っても林道とさほど大差がない山道ではあるが、それでもここに出さえすれば1200mの山越えも大迂回の必要もなく、しばらく走れば紀伊半島を南北に縦断する主要道、国道168号線へ出る事も可能。

野迫川村立里1803map001.jpg

再び地図。このように立里と県道734号、両者の距離は地図上ではわずかに見える。自分も20年近く前、初めて立里集落の存在を知った際、道路地図を広げながら県道からのアクセス路が存在しないことを不思議に感じ、隔絶された謎の集落には隠された秘密があるに違いない!と無邪気に思ったものだ。
しかし実際の地形を目で見るとその理由がよくわかる。集落と県道の標高差は400mあまり。距離がないという事は急傾斜の現れだ。さらには池津川によって分断され両者の間には絶望的な距離があるのだ。
対岸の山中には中津川という廃村が森に埋もれている。さらに奥には豪雨によって山体崩壊を起こした山の傷跡が見えた。土砂は県道734号線を飲み込み復旧したのは最近のこと。



再び森に入った。300mあまり進んだろうか、森が切れるとぽっかりと空間が広がり周囲は明るさに包まれた。昼過ぎ、ようやくのことで立里集落に到着。前回の訪問から11年、現在も住人はいるのだろうか。

1803tateri06.jpg

ちなみに立里は上記看板に書かれているように「たてり」と読む。この集落を初めて知った際は自分は道路地図にフリガナが併記されていなかったため「たてざと」だとしばらくの間思い続けていた。
集落奥の空き地に車を停め、エンジンを切ると静けさに包まれた。同じ空き地の片隅には軽トラックが置かれている。車体はわりと新しく、廃車には見えないことからここは廃村ではなく現在も住人がいるに違いない。

奈良県野迫川村立里集落ドローン空撮2003naratateridrone04.jpg

立里中心部。森を切り開いた斜面に15棟ほどの古びた平屋が点在している。メインストリートでもある車道沿いの民家は住人が離村してから久しいのか、屋根には穴が空き壁面も崩れ朽ち果てていた。他にも廃屋とおぼしき民家が点在する集落内で生活改善センターと書かれた公民館のような建物だけが唯一新しく見える。

1803tateri08.jpg
1803tateri09.jpg
1803tateri07.jpg

集落の外れにある古びた建物が。これが廃校となった立里小学校の木造校舎。
車によって往来可能になった現在においても到着には相当の苦労を要する人里離れた集落においても、学校が作られ教育が行われていた。
このタイプの校舎は紀伊半島の秘境集落でよく目にするもの。閉校から30年あまり、窓ガラスの多くが破れ、側面入口は崩落、しばらく見ないうちに随分と崩壊が進み休校とは言うものの廃校に近い状態となっている。
正面玄関脇には立里小学校と書かれていたらしい木の表札があったが劣化し文面を読み取る事はできなかった。

廃校野迫川村立里小学校1803tateri18.jpg


窓ガラスがないため中の様子が外からも手に取るようにわかる。窓の隙間や開口部から内部を撮ってみた。廊下を挟んで教室や職員室が並ぶ典型的な間取り。クラスは学年ごとではなく低学年と高学年に分けられ授業が行われていたようだ。また別の教室にはピアノが残されている様子も窓枠越しに見えた。



教室内の黒板に書かれた当時、あるいは閉校後に書かれたと思われるメッセージも外から読み取る事ができる。その中に卒業生が書いたと思われる非常に印象に残る文章が書かれており、一部抜粋。

2304naratateri01.jpg

「小さい頃の思い出が何十年たった今も、この校舎に入ればこの間のように思い出される。桜の木に登って鬼ごっこ、土曜日は昼からは川で泳ぎ、あけび取りに鉱山へ。」
当時の子供達の様子が非常に生き生きと、そして感動的に書かれている。同時にここでの生活のヒントが垣間見える。立里には当時、銅を採掘する立里鉱山があり、そのために学校もそれなりの児童数を有していた。

立里集落廃校1803tateri13.jpg
立里小学校1803tateri11.jpg
1803tateri12.jpg

廃村寸前の状態になってしまった立里であるが、最盛期である1960年代にはそれなりの人口、児童数が保たれていたようだ。その理由は鉱山。近隣で銅等が採掘されていた事もあって、廃校となった中津川小学校含め隆盛を極めた時期もあったようだ。しかしその後山村人口の慢性的な低下に加え、閉山が重なり人口は減り続け立里小学校は1980年代に閉校となった。

静まり返った校庭は日当りも良い。前回とは違った穏やかな春の日差しを浴び校舎石段に腰掛けていると突然頭上で大音量のチャイムが鳴り響き、驚きのあまり思わず飛び上がってしまった。
振り返ると校舎軒下に設置された防災無線スピーカは生きていたようで野迫川村で本日行われる防災訓練を告げる案内が集落内に響き渡るが聞き取る住民はいるのだろうか。



再び立里を探索。集落には相変わらず人の気配はない。つい数年前まで人が住んでいたのではと感じさせられる手入れが行き届いた民家もあるものの、実際にはほとんどが空き家のようだ。屋根や壁が崩れて落ちた廃屋も多く、仮に住民がいたとしても1〜2世帯ほどだろう。

奈良県野迫川村立里集落ドローン空撮2003naratateridrone02.jpg
1803tateri14.jpg
1803tateri15.jpg

集落の外れには索道らしき鉄塔があった。鉄塔から伸びるワイヤロープを目で追って行くと谷間へと消えている。現在は使われている様子はないがかつては眼下を走る県道と標高差400mをもって接続され、木材搬出や生活物資の搬入に利用されていたと思われる。交通困難な紀伊山地においては空中を行き来するこのような物資運搬用の索道は決して珍しいものではなく、かつて近隣には全長20kmにも及ぶ長大索道も存在した。

野迫川村立里地図1803map001.jpg

【追記】
立里からふもとへと伸びる物資運搬用の索道ワイヤロープの行き先は数年後に判明した。
遙か眼下を流れる池津川に架かる朽ちたトラス橋、池津川橋[上記地図]。現在は通行止めとなった封鎖された橋の袂に草に埋もれた錆び付いた荷積場を見つけた。

池津川橋2304naratateri03.jpg
2304naratateri02.jpg

そこから伸びるケーブルは見上げるような高さの斜面へと吸い込まれていった。その標高差400mあまり。池津川上流域は渓谷のような澄み切った清流となっており、立里小学校の黒板に残された川遊びとはこの川をさすのではないか。まさか索道で人も運搬していたとは思われないので、当時の人たちの健脚ぶりには驚かされる。



索道脇から杉並木へと続く人道を下ってみる。しばらくの間は緩やかだった道も次第に急傾斜に。実際に地形図にも人道を示す現す破線表記がなされているがそれがこの小道だろう。集落に車を残したまま谷底まで下る訳にもいかないので途中で引き返した。
山道は谷底へ下った後、池津川をどのように渡り県道と接続されていたのか。実はgooglemapで池津川流域を調べると県道脇に「吊り橋跡」といった文字が表示される。現在は崩落している模様だが、かつて立里住民によって利用されていた吊り橋なのだろう。地図上では隔絶されていた立里も人道によってひっそりと下界との繋がりが保たれていたのだ。

1803tateri17.jpg

一方、立里集落と野迫川中心部を結ぶ交通においては尾根伝いに続く人道レベルの道はあったと思われるが現在の車道が開通したのは1977年のこと。少し以前に撮影された航空写真にも車道らしきものは見当たらず近年まで車の乗り入れができなかったとは驚きだ。 

車道完成以前はこの山道と吊り橋が集落と下界との繋がりを保つ手段だった。その後時代を経て索道が設置され資材運搬は機械化されていったと思われる。
それにしてもこれだけの標高差を徒歩で行き来するとは相当な苦労があっただろう。しかしそれは現在の観点からであって、以前三遠南信にあるよく似た山岳集落においても、車道完成以前は通学、買い物、あるいは川遊びのために何の疑問も抱かず日常的に数百メートルを登り下りしてたという話を老人から聞いたことがあり、集落で生まれ育った人にとっては当たり前のことだったのかもしれない。

1803tateri16.jpg

奈良県野迫川村に属する立里。しかし冬期通行困難となる野迫川中心部方面と比べ、主要道168号に繋がる大塔村方面の利便性を感じてしまう。野迫川村に所属しながらも車道完成以前においては隣接する大塔村との関係がより深かったのかもしれない。このあたりの話を住民の方から伺いたいものだが静まりかえる集落には相変わらず人の気配ゼロ。 



実は近年、尾根沿いの林道上垣内立里線と谷底の県道734号を直接繋げようとした痕跡が道路脇に残されている。集落からしばらく野迫川方面へと戻ったあたりに立里線から分岐し、谷底へと下る廃道のような車道がある(上記地図の破線部分)。空撮で確認すると谷底には池津川を渡る橋が造られ両者は上下から接合を目指していたようだ。しかし現在は工事も中断、未成のまま放棄されているように見える。道の建設、維持費と立里の人口バランスを考え道路建設は早急だと判断されたのかもしれない。



車を停めていた空き地へ戻ると先ほどまで横にあったはずの軽トラがなくなっていた。立里住民のものかは不明だが地元の方からこの地域に関する話を聞くチャンスを逃してしまった。

唯一のアクセス路は立里集落で行き止まりとなっているため、集落を発つと同じルートをひたすら戻る必要がある。経験済みとはいえ予想以上に時間と手間がかかってしまい、県道を下り廃吊り橋を訪れる予定を消化する事ができなかった。それでも10年来の懸案だった立里再訪がようやく解消できたので今回はまあ良しとするか。

[了]

Pagination

Utility

プロフィール

hou2san

Author:hou2san
●なにかあれば
下記メールフォームで。↓
場所を教えろよなんてことでもいいです。
※掲載内容は訪問時の状態であり、現在は異なっている場合があります。

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新記事