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●2019年3月某日/春を待つ廃校

  • 2019/06/11 22:50
  • Category: 廃校
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雪に覆われた廃屋が点在する長野県山中の廃村。
冷えきった三月某日、凍結した真冬の林道を歩き続けた奥地に
厳冬期を耐え再び春を迎えつつある木造校舎が人知れずあった。

photo:Canon eos7d 15-85mm

水をたたえたダム湖が連続する長野県梓川。
北アルプスから長野平野へと流れ込む急峻なこの川には電源開発を行うべく戦前からいくつもの発電ダムが建設された。そのため川は流れもなくよどんだ姿をみせている。

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灰色のアーチダム堰堤脇を抜け主要道から外れると、湖畔に迫る斜面に作られたつづら折りの道を車で上り続ける。ダム湖を遥か眼下に見下ろす頃、斜面に密集する民家が現れた。この集落はダム建設時に沈んだ村の移転先として作られたものだ。



集落を抜け林道を走り続けると周囲の光景は真冬の様相に変化、除雪はされているとはいえ進めなくなるのも時間の問題。やがて行く手は冬期車両通行止の看板とともに封鎖されていた。車を脇に停め徒歩で先を偵察してみたが路面はこの有様。おそろしい凍結具合。

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ここは素直にUターン、しばらく林道を引き返し路肩の空き地に車を停め徒歩で目的地へ向かう事にした。
風もなく、生き物の気配もなく、もちろん一台の車もなくしんと静まり返った雪の林道を歩き続ける。冬の山がこのように静かなのだと初めて知った。雪にはあまり縁のない地区の人間なのでひたすら珍しい光景。



やがて周囲に古びた民家が次々に現れた。雪に埋もれたその全てが廃屋。先ほどのダム移転によって作られた集落と違いこれらはさらに古くからあったもの。現在は住民が山を離れたことで廃村となった。目的の廃校もこのどこかにあるはず。集落片隅には林道から外れ、山へと続く登山道があった。

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深い雪に足を取られつつ急な雪道を登って行く。地面を覆っていた雪は次第に消え去り茶褐色の地肌が露になった頃、行く手の森に廃屋が見えた。これが目的の廃校なのか。しかし見上げた斜面上には門柱らしきシルエットが見える。ということは学校はこの先。
杉林を登りきり古び傾いた門柱を抜けると急傾斜の尾根を削り作ったわずかな平地に古びた木造の建物があった。廃校となった分校跡へ到着。

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建物は校舎部分と民家風の建物がL字型に連結された構造となっている。民家風の建物はおそらく教員住宅だろう。校舎に設けられた薄汚れた窓ガラスを透かし中を覗き込むと三つほどの教室がぼんやりと見える。
うまい具合に窓ガラスが破れていたり、窓枠が開いたままの箇所がいくつかあったのでそこからそれぞれの教室跡の様子を見ることができた。
最も南側の教室。がらんとした一見殺風景な教室の真ん中にバランス良く木製の椅子と机が配置されている。中央への配置、少しずれた椅子、窓枠から撮った割にはできすぎた構図。

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他の教室にも同じようにわずかな机が置かれている。残された机の数が閉校間際の生徒数なのだろうか。北側の教室には古びたオルガンが残されているのが見えた。



標高1,200m、車での乗り入れはできない尾根の斜面に張り付くように立地する廃校。頭上を見渡すと冬でも葉を茂らした杉の木立に赤い屋根の上を覆われているため空撮にも捕らえられていない。枯れた木立の合間からはわずかに冠雪した北アルプスの山々を望むことができた。

設置されていた寒暖計を見ると既に昼過ぎだというのに氷点下5度を指していた。汚れた窓ガラス越しに見える黒ずんだ大型ストーブがこの地の冬の厳しさを物語る。厳冬期にはストーブに赤々と灯を点し授業が行われていたことだろう。


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廃校となり人が去ってからも何十回ともなく繰り返してきた冬の季節。この冬も無事に乗り切った廃校だがいずれ人知れず雪の重みで倒壊してしまうのだろうか。



再び冬の林道をひたすら歩き車を回収。川を下り麓にていつくかの建築を見学。
1950年代に建設された刑務所跡。半年程前、新潟県佐渡島で拘置所跡を見学したことが竣工時期はほぼ同じためか構造始め非常に似たつくりとなっている。先程過ごした山の廃校も寒かったがこちらはさらに底冷えを感じる空間。

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薄暗い電球に照らし出される歯車や木で組まれた繊細な機械。
これらは生糸の製糸場跡。生糸は明治大正期におけるメイン産業であり長野県にも多数の生産拠点があった。当時日本の輸出品とはいえば現在のような製造業は皆無、ヨーロッパの不作も影響しこのような工場で生産された生糸が外貨獲得の手段となった。

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本工場は富岡のような大規模なものではなく、主に国内向け生産だったもの。工場閉鎖後ここに移設された。自動化される以前、手作業中心だった当時の雰囲気がよく残されている。


[了]
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●2018年8月某日/夏の廃校に泊まる

  • 2019/01/06 18:01
  • Category: 廃校
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青森県津軽半島の先端、竜飛崎のキャンプ場で朝を迎えた。
何度ここで朝を迎えた事か。相変わらず素晴らしい場所だった。
「北の果て」を目指すという目的は終わったので
細かい場所に立ち寄りながら夏の東北大陸を南下開始。


photo:Canon eos7d 15-85mm

前回の記事

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長かった夏の日が傾き、広大な田圃が金色の光に包まれる。青森県の竜飛崎から二日をかけ南下を続け山形県へと辿り着いた。田圃に囲まれたのどかな里山の片隅には古びた木造二階建ての建物が見える。この建物は30年ほど前に廃校となった分校の木造校舎。
今夜はこの廃校に泊まるのだ。

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午後4時、「廃校」に到着した。草原のようになった緑の校庭へ車を乗り入れ、見回しても周囲は静まりかえり人の気配は皆無。
鍵もかかっていない木造校舎の古びた扉をガラガラと開き、中に向かい何度も呼びかけても誰も出て来ない。仕方がないので校庭で遊ぶこと1時間、ようやく軽トラに乗った管理人が現れた。これまでも数多くの廃校に宿泊してきたがその安さ故か適当な場所が多かった。ここも予想通りなかなか適当な感じだ。だがそれが良い。



この廃校、体育館を含め三つほどの建物が作るL字型の集合体となっておりその規模も大きい。閉校から30年余りが経過、現在は地元の会合等で時折使用されている形跡はあるものの、老朽化は否めずまるで廃墟に泊まっているかのような気分だ。
ボールが散乱する体育館跡で遊んだり、図書室に残された本を読んだりと時間を過ごす。

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当然ながら他に宿泊客の姿もなく、寝る部屋もどこでも良いとのことなので木造校舎の1階、2階の全ての部屋を見て回り最も居心地の良さそうな部屋に決めた。
寝る部屋は黒板が残された1階の元教室。部屋の片隅に山積みとなった布団から自分の分を引っ張り出し広大な部屋の中央部に敷く。スーパーで買い出しをした食材を食べているうちに日は沈み里山は闇に包まれた。

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やがて管理人も帰宅し巨大な廃校は貸し切り状態となった。教室のカーテンを開けると窓には漏れる明かりに集まった無数の羽虫がびっしりと張り付いていた。田舎育ちなのでそのような光景を見てもなんとも思わないが苦手な人は悲鳴を上げてしまうかもしれない。街灯下には同じように光に集まったクワガタを見る事もできた。

夜も更けると、校舎の灯りを全て落とし真っ暗となった校庭で星を見る。無数の夏の星座。価格も非常に安く勝手気ままに過ごせる自由度の高い廃校の宿。とても気に入ってしまった。




青森から南下する道中立ち寄った場所のひとつ、宮城県山中にある不思議な色をたたえた池、潟沼。
以前から地形図で気になっていたこの場所を今回ようやく訪れる事ができた。森が切れ視界が開ける同時にグリーンの湖面が現れた。潟沼は数日前訪れた十和田湖と同じ火山が作り出したカルデラ湖。そのため周囲を丸ごと山に囲まれた窪地となっており流れ出す川もない。

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遥か対岸に見える砂浜のような場所が気になり、湖畔に沿って草むらを歩き出した。波もない凪状態の鮮やかな湖面。静かに広がるボートの航跡。



そんな美しく静かな潟沼に響き渡る不気味な音。間違いなく銃声だ。猟銃かと思いつつ後に地図を見ると潟沼の対岸に射撃場があった。美しい光景と不釣り合いなシュールな音。定期的に湖上に響く銃声を聞きながら湖畔を歩き先ほどみた「砂浜」に到着。

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そこは白い砂が堆積する場所だった。南国のビーチを彷彿とさせる風景。水に足をつけてみたいものだが、看板によれば潟沼の水質は火山活動の結果、非常に強い酸性となっている。まさか酸の湖のように身体が溶けてしまう事がないだろうな、思いながらおそるおそる素足をつけてみると以外に心地良いぬるめの水だった。




宮城、山形、新潟。他にも各所を巡りながら広大な東北地方をだらだらと南下。

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夜が迫った日本海の街は赤く染まる不気味な雷雲に包まれていた。雲の中を音もなく稲光が走り続ける。
そろそろ今回の旅を終えるか。

[了]



●2018年3月某日/秘境集落、紀伊半島立里再訪記。

  • 2018/04/29 22:40
  • Category: 廃校
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紀伊半島。奈良、和歌山、三重3県が作り出す広大な土地のほとんどは山岳地帯である。
四国祖谷、宮崎椎葉村と並び秘境集落、山岳集落の宝庫と言われる紀伊半島の中でも
最も下界と隔絶されているのではないかと思われるのが野迫川村山中にある「立里」と呼ばれる集落だ。
紀伊山地の最深部、抜け道のないどん詰まりの林道を
ひたすら走り続けた終点にある十棟ほどの民家。

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地図上ではわずかの距離を県道が通るが、不思議な事に直通路はなく
立里を訪れるには標高1200mの山を越える大迂回を強いられることになる。

この集落の存在を知ったのは遡る事20年近く前、師匠ともいえる人物からの情報だった。
道路地図を広げ見つけた訪問者を拒むかのような隔絶された立地に魅力を感じ
それから10年余り過ぎた2007年夏、苦労の末、実際に現地を訪れる事ができた。
残念ながら当日は土砂降りの雨に見舞われてしまったためその後も挑戦を続けたものの、
そのアクセスのあまりの悪さ故、何度も敗退する羽目となった。
最近では2017年末に積雪によって断念させられた秘境集落、春の訪れを待ち再挑戦を行った。

photo:Canon eos7d 15-85mm
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2007年夏の立里訪問記

2018年春。紀伊半島は二ヶ月前の極寒の日が嘘のような陽気に包まれていた。
紀伊半島最深部に存在する立里集落目指し、まずは林道の起点がある野迫川村中心部へ。核心部はまだ10数キロも先だというのに道は既に「険道」の様相を呈している。曲がりくねった狭隘な山道をひたすら登り続け稜線へ登りきると視界が開け広大な紀伊山地の風景が広がった。このあたりが野迫川村中心部となる。見渡す限りの山。その一画に目的地の立里はある。

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目を凝らすと山の一角には隔絶された民家が見える。目的地のものではないが、秘境集落の宝庫でもある紀伊半島ではこのように小規模な集落が広範囲に点在している。



奈良県野迫川村。奈良県といったキーワードから人々がイメージするものは大仏に代表される寺社仏閣や古墳ではなかろうか。しかし2/3以上を森林が占めるという奈良県の実態はあまり知られていない。野迫川はその南端にある山村。人口わずか400人。広大な面積を持ちながらそのほぼ全てが山林で覆われ可住可能面積はわずか2%。

立里集落は野迫川村中心部から南東へ突き出た荒神岳山系が形成する尾根の南端に位置する。
稜線を走る県道から分岐する集落への唯一のアクセス路、林道上垣内立里線へと入った。立里へは山越の必要があるためしばらくの間、急な登り道が続く。その途中には立里荒神社、さらに進んだ場所にあった宿は閉鎖され廃墟と化していた。


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廃ホテル周辺は行程の中で最も高地にあたり、地形図によれば標高は1200mを越えている。春だとはいえ道路脇では涌き水が凍り付き日影には雪が残されている。冬期通行困難な奥地において集落ではどのように生活が営まれているのだろうか。



ここから先は立里集落に用がある人間しか立ち入らない道。脇の看板にも立里と共にこの先行き止りと書かれている。
薄暗い杉木立の森に続く古びた林道を走り続け尾根の先端へと到着、ここから立里までは標高差400mを一気に下る。道は上り詰めた山を容赦なく下り続ける。前回はこのあたりで土砂降りの雨に見舞われスリップの恐怖に覚えながら水が溢れる急坂を下り続けた記憶がある。
曲がりくねった林道を下り続け、集落まで残り数百メートル。到着直前、崩落したガレ場を通過、視界が開けた。集落からの眺望が得られない事はかつて訪れた際の経験から既に知っているのでここで一旦車を停め地形を観察した。

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広がるのは東方面の紀伊山地。見渡す限りの山々、蛇行する川が削り取った急峻な谷。遥か彼方で冠雪している山は大台ケ原だろうか。
高度感を感じる眼下の谷底には見覚えのあるトラス橋が見える。その名は池津川橋。遠目にはわからないが実態は朽ち果て通行止め。橋を渡り、南へと続く林道川原桶川線は崩落のため通行不能、復旧が行われている気配もなく廃道と化している。

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写真に写る県道734号は立里から最も近距離にある「まともな」道である。と言っても林道とさほど大差がない山道ではあるが、それでもここに出さえすれば1200mの山越えも大迂回の必要もなく、しばらく走れば紀伊半島を南北に縦断する主要道、国道168号線へ出る事も可能。

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再び地図。このように立里と県道734号、両者の距離は地図上ではわずかに見える。自分も20年近く前、初めて立里集落の存在を知った際、道路地図を広げながら県道からのアクセス路が存在しないことを不思議に感じ、隔絶された謎の集落には隠された秘密があるに違いない!と無邪気に思ったものだ。
しかし実際の地形を目で見るとその理由がよくわかる。集落と県道の標高差は400mあまり。距離がないという事は急傾斜の現れだ。さらには池津川によって分断され両者の間には絶望的な距離があるのだ。

対岸の山中には中津川という廃村が森に埋もれている。さらに奥には豪雨によって山体崩壊を起こした山の傷跡が見えた。土砂は県道734号線を飲み込み復旧したのは最近のこと。



再び薄暗い森に入った。300mあまり進んだろうか、森が切れるとぽっかりと空間が広がり周囲は明るさに包まれた。昼過ぎ、ようやくのことで立里集落に到着。
前回の訪問から11年、現在も住人はいるのだろうか。

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ちなみに立里は上記看板に書かれているように「たてり」と読む。この集落を初めて知った際は自分は道路地図にフリガナが併記されていなかったため「たてざと」だとしばらくの間思い続けていた。


集落奥の空き地に車を停め、エンジンを切ると静けさに包まれた。同じ空き地の片隅には軽トラックが置かれている。車体はわりと新しく、廃車には見えないことからここは廃村ではなく現在も住人がいるに違いない。



立里中心部。森を切り開いた斜面に15棟ほどの古びた平屋が点在している。メインストリートでもある車道沿いの民家は住人が離村してから久しいのか、屋根には穴が空き壁面も崩れ朽ち果てていた。他にも廃屋とおぼしき民家が点在する集落内で生活改善センターと書かれた公民館のような建物だけが唯一新しく見える。

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集落の東側にある古びた建物が立里小学校の木造校舎。
車によって往来可能になった現在においても到着には相当の苦労を要する人里離れた集落においても学校が作られ教育が行われていた。
このタイプの校舎は紀伊半島の人里離れた集落でよく目にするもの。閉校から30年あまり、窓ガラスの多くが破れ、側面入口は崩落、しばらく見ないうちに随分と崩壊が進み休校とは言うものの廃校に近い状態となっている。

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正面玄関脇には校名が書かれていたらしい木の表札があったが劣化し文面を読み取る事はできなかった。
窓ガラスがないため中の様子が外からも手に取るようにわかる。窓の隙間から内部を撮ってみた。廊下を挟んで教室や職員室が並ぶ典型的な間取り。クラスは学年ごとではなく低学年と高学年に分けられ授業が行われていたようだ。また窓からはピアノが残されているのも見えた。

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廃村寸前の状態になってしまった立里であるが、最盛期である1960年代にはそれなりの人口、児童数が保たれていたようだ。その理由は鉱山。近隣で銅等が採掘されていた事もあって、廃校となった中津川小学校含め隆盛を極めた時期もあったようだ。しかしその後山村人口の慢性的な低下に加え、閉山が重なり人口は減り続け立里小学校は1980年代に閉校となった。

静まり返った校庭は高台だけあって日当りも良い。前回とはまるで違った穏やかな春の日差しを浴び校舎入口の石段に腰掛けぼんやりとしていると突然頭上で大音量のチャイムが鳴り響き、驚きのあまり思わず飛び上がってしまった。
振り返ると校舎軒下に設置された防災無線スピーカは生きていたようで野迫川村で本日行われる防災訓練を告げる案内が集落内に響き渡るが聞き取る住民はいるのだろうか。



再び立里を探索。集落には相変わらず人の気配はない。つい数年前まで人が住んでいたのではと感じさせられる手入れが行き届いた民家もあるものの、実際にはほとんどが空き家のようだ。屋根や壁が崩れて落ちた廃屋も多く、仮に住民がいたとしても1〜2世帯ほどだろう。

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集落の外れには索道らしき鉄塔があった。鉄塔から伸びるワイヤーロープを目で追って行くと谷間方面の森へと消えている。現在は使われている様子はないがかつては眼下を走る県道と標高差400mをもって接続され木材搬出や生活物資の搬入に利用されていたと思われる。交通困難な紀伊山地においては空中を行き来するこのような物資運搬用の索道は決して珍しいものではなく、かつて近隣には全長20kmにも及ぶ長大索道も存在した。

杉並木の中へと続く索道脇の人道を下ってみる。しばらくの間は緩やかだった道も次第に急傾斜に。実際に地形図にも人道を示す現す破線表記がなされているがそれがこの小道だろう。集落に車を残したまま谷底まで下る訳にもいかないので途中で引き返した。



山道は谷底へ下った後、池津川をどのように渡り県道と接続されていたのか。実はgooglemapで池津川流域を調べると県道脇に「吊り橋跡」といった文字が表示される。現在は崩落している模様だが、かつて立里住民によって利用されていた吊り橋なのだろう。地図上では隔絶されていた立里も人道によってひっそりと下界との繋がりが保たれていたのだ。

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一方、立里集落と野迫川中心部を結ぶ交通においては尾根伝いに続く人道レベルの道はあったと思われるが現在の車道が開通したのは1977年のこと。少し以前に撮影された航空写真にも車道らしきものは見当たらず近年まで車の乗り入れができなかったとは驚きだ。 

車道完成以前はこの山道と吊り橋が集落と下界との繋がりを保つ手段だった。その後時代を経て索道が設置され資材運搬は機械化されていったと思われる。
それにしてもこれだけの標高差を徒歩で行き来するとは相当な苦労があっただろう。しかしそれは現在の観点からであって、以前三遠南信にあるよく似た山岳集落においても、車道完成以前は通学、買い物、あるいは川遊びのために何の疑問も抱かず日常的に数百メートルを登り下りしてたという話を老人から聞いたことがあり、集落で生まれ育った人にとっては当たり前のことだったのかもしれない。

野迫川村に属する立里。しかし冬期通行困難となる野迫川中心部方面と比べ、主要道168号に繋がる大塔村方面の利便性を感じてしまう。野迫川村に所属しながらも車道完成以前においては隣接する大塔村との関係がより深かったのかもしれない。このあたりの話を住民の方から伺いたいものだが静まりかえる集落には相変わらず人の気配ゼロ。 



実は近年、尾根沿いの林道上垣内立里線と谷底の県道734号を直接繋げようとした痕跡が道路脇に残されている。集落からしばらく野迫川方面へと戻ったあたりに立里線から分岐し、谷底へと下る廃道のような車道がある(上記地図の破線部分)。空撮で確認すると谷底には池津川を渡る橋が造られ両者は上下から接合を目指していたようだ。しかし現在は工事も中断、未成のまま放棄されているように見える。道の建設、維持費と立里の人口バランスを考え道路建設は早急だと判断されたのかもしれない。



車を停めていた空き地へ戻ると先ほどまで横にあったはずの軽トラがなくなっていた。立里住民のものかは不明だが地元の方からこの地域に関する話を聞くチャンスを逃してしまった。

唯一のアクセス路は立里集落で行き止まりとなっているため、集落を発つと同じルートをひたすら戻る必要がある。経験済みとはいえ予想以上に時間と手間がかかってしまい、県道を下り廃吊り橋を訪れる予定を消化する事ができなかった。それでも10年来の懸案だった立里再訪がようやく解消できたので今回はまあ良しとするか。

[了]

●2017年8月某日/東北徘徊録〜山形・秋田廃校編〜

  • 2017/09/30 19:59
  • Category: 廃校
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記録的な日照不足に見舞われた2017夏、いつものように訪れた東北は曇天だった。
沿岸を北上するにつれやませと呼ばれる冷たい霧雨に包まれ
本来色鮮やかな姿を見せる北の海もまるで真冬のようによどんだ姿を見せていた。
寒かった2017年夏、キャンプ場や廃校に泊まりながら放浪した三年連続の東北一周徘徊録。


photo:Canon eos7d 15-85mm


山形県の廃校

山形県奥地。山道を走り続けていると緑の田んぼ、そして古びた民家が点在する小さな集落が時折現れる。この廃校もそんな集落外れにある。坂道を登りきった高台の大きな建物。その正体は廃校となった小学校跡。
普段木造校舎に惹かれる自分がなぜ鉄筋の廃校を訪れたのか。それはその特徴的な外観にある。草原と化した校庭跡から眺めたその姿は頭に思い浮かべる鉄筋校舎とかけ離れた姿。校舎は見ての通り角張った円を描く三階建て、このような校舎は「円形校舎」と呼ばれているもの。

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山形県円形校舎の廃校1708yamagata02.jpg


一部に根強いファンを持つ円形校舎とは1950年代に流行した学校の建築様式。
革新的なデザインだったもののいざ使用してみると使い勝手が悪かったようで流行の終わりも早く次第に姿を消して行った。現在でも当時建設されたものがわずかに残り、以前むつ市でも見た事があるが内部に入るのがこれが初めて。

山形の円形校舎は現在アトリエとなっている。まずは校舎一階の様子。この階に職員室はじめ学校の事務機能が設置されていたと思われる。


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70年近く前のものだとは思えないシャープなデザイン。
木造校舎全盛期の1950年頃、おそらく集落は茅葺き農家がほとんどだったのではないか。そんな時代、村の子供達は新築された丸い校舎を見てその構造、デザインから圧倒的な近未来を感じたことだろう。
中央部を貫通する螺旋階段が設置された円形校舎の写真をよく目にするが、この廃校においては階段は中央ではなく壁際に設置されていた。


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階段は至って普通、壁面には当時のものらしき壁画が残されている。

続いて訪れた二階は教室となっていた。1階と同じく建物中心にある空間を取り囲むように扇型の教室が円形に配置されている。教室内は曲線を描く完全な円というわけではなく無骨な直線の梁の組み合わせ。


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山形県の廃校1708yamagata07.jpg


この構造、中心に全ての教室に通じるフロアを置くことで廊下分のスペースが節約されるという理由だろうか。また中央に螺旋階段がないためかさらに広く空間が使われている。



それにしてもこの円形校舎いつ作られたものなのか。
帰宅後web上で学校の沿革を調べてみたが1878年に開設、2005年閉校程度の情報しか見当たらない。円形校舎が明治期からあるはずもないので国土地理院の過去写真で時代をさかのぼる。
1972年に集落を撮影した空撮には既に特徴ある丸い建物が克明に映し出されている。さらに時代をさかのぼった1968年、解像度が低いがかすかにそれらしき建物が見えた。これ以前の写真は発見できなかったが少なくとも60年代には存在した。円形校舎の流行時期50年代と一致する。


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続いて二階から三階、校舎最上階へ。
薄暗い階段を上りきった最上階は思いもよらぬ広大な空間が。高い天井、板敷きの床、そしてステージ。その正体はなんと体育館。三階も教室だろうという想像を裏切る構造。前知識なしに訪れたので驚いてしまった。


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真上を見上げると羽幌の廃校で見た円形体育館を思い起こす放射状の天井梁。そういえば先程外から見た校舎外観に赤く錆び付いたドーム型の屋根が見えたことを思い出した。
木造校舎とは違った趣のまるで秘密基地のような面白い構造の廃校。円形校舎がここまで魅力だったとは。



秋田県の廃校

秋田岩手県境近くの山中にある湖、田沢湖。この湖を訪れるのは久しぶりのこと。十数年前、湖周辺に残された廃鉱山あるいは建設中の隧道見学など多くの思い出がある懐かしい場所のひとつ。その湖畔、いや湖畔という事を感じさせられない深い森を背景に建つ木造校舎、1974年に廃校となった田沢湖町立生保内(おぼない)小学校潟分校跡。



校舎は木造二階建て。職員室を中央に左手の体育館、右手の校舎、三つの建物で構成され分校にしては規模が大きい。黒光りする廊下を歩き教室に入る。窓の外は湖畔の気配も感じられない一面緑の世界。


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現在の校舎は1923年竣工のもの、その後の解体の危機を乗り越え現在に至る。
高い天井と開放的な大きな窓からの光に包まれ教室内は明るい雰囲気。
階段を上がった二階は高学年の教室となっていた。使い込まれた当時の机や備品が整然と並ぶ古びた教室内はノスタルジックな古き良きイメージ通りのそのまま雰囲気。


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現在は狭いとはいえ道も整備されているが開校当時、冬場は行き来も困難だったこの地区は陸の孤島と呼ばれていたという。穏やかな緑に包まれた季節からが想像もつかない冬の厳しさ。冬に訪れていたら廃校の印象もまた変わったことになっただろう。


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森を走り抜け視界が開けた。十数年ぶりに見る田沢湖はもやに包まれ対岸を見渡す事はできなかった。
湖畔には先日オープンしたばかりの真新しい施設があった。田沢湖クニマス未来館。
湖に高濃度の酸性水が流れ込んだことで田沢湖に生息していたクニマスを始めとする魚は全滅、盛んだった漁業もその魚場を失い衰退して行った。
懸賞金までかけられたこのクニマス、最近山梨県で偶然に発見されたとニュースになっていた。


[続く]

●2017年5月某日/GW初春の南東北徘徊/「昭和」の廃校〜福島編〜

  • 2017/08/15 20:19
  • Category: 廃校
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2017年ゴールデンウィークは北関東から東北南部を徘徊。
福島県会津山中を北上するにつれ風景は
初夏、新緑、桜と次第に季節は逆戻り、やがて周囲は残雪に覆われた。
そんな峠を越えた山村片隅に残された廃校、喰丸小学校に到着。


photo:Canon eos7d 15-85mm

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福島県会津昭和村郊外に建つ廃校、喰丸小学校跡。
イチョウの大木と二階建ての古びた木造校舎が作り出す光景はあまりに有名。

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開花したばかりの門柱脇の桜、一方校庭片隅には雪が残り、二つの季節の組み合わせがおもしろい。時刻は昼過ぎ、片隅に腰掛け道中のコンビニで買っておいた昼飯を食べる。



この廃校が放つ存在感はかなりのもの。国道からもよく見えるためかひっきりなしに訪問者が訪れる。昼飯を食べながら校庭に滞在していた1時間ほどの間に、車、ツーリング中のバイク、自転車乗りなど十数人あまりが廃校を訪れた。廃墟となったものから再利用されているものまで、各地の廃校を訪れた自分もここまで人気がある廃校は初めて。

校舎は木造のものと増築されたらしい新しい二つの建物で構成されている。喰丸小学校で画像検索した際、出てくる写真のほとんどが右側がトリミングされたものだった。現地で納得、なるほど皆、違和感ある新設校舎をカットして撮っていたのだ。


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廃校、喰丸小学校跡2017GW0401.jpg

自分も正面に立つが確かに右手の増築校舎はトリミングし木造校舎だけを撮りたい気持ちがよくわかる。

今でこそ校舎一棟の喰丸小学校、かつてはさらに規模が大きかったようだ。昔の航空写真で調べると校舎は左へと続き、現在は更地となった裏手の平地にはプールも映し出されていた。
閉校から40年近くが過ぎた校舎は明らかに老朽化が進んでいた。素朴な雰囲気の校舎正面に対し、人目につかない裏手はブルーシートで覆われ傾きを止める木材で補強されている。雪が積もる地域での古い建物の保存の難しさを改めて思い知らされる。
帰宅後、喰丸小学校の改修工事が計画されていることを知った。古びた廃校校舎がリノベーションされ、カフェ等が併設されたおしゃれスポットに変貌してしまうようだ。2018年オープンを目指し、すでに2017年6月からリニューアルに向けた校舎解体工事が始まったとのこと。あまりに老朽化が進んでいたため解体されるよりは良かったが、廃校マニアとしては改修前の素朴な姿をギリギリのタイミングで見ることができたことに安堵した。



ところでこの喰丸小学校が建つ村の名称は「昭和村」。その由来が気になるもの。役場のサイトで沿革を調べると大方の予想通り「昭和2年野尻村・大芦村が合併、昭和村の誕生」と書かれていた。

ここからは妄想となるが、市町村合併の際どちらの名称を使用するか争いとなるのは今も昔もよくある話。両者を納得させる中立の名前、それが当時の日本で最も熱いキーワード、世に登場したばかりの新年号「昭和」だったのではないか。両村長の鶴の一声で新村名は昭和と決まり議論は無事決着。まあそんなところだろう。

しかしどんな最新のものでも時代の流れとともに陳腐化するのは世の連れ。当時最先端だった「昭和」も時を経て今やノスタルジックを現す代名詞となってしまった。平成もまもなく終わろうとしている今でも頑として昭和の名称を変えない村の姿勢にはなんだか好感が持てる。
廃校意外にも周囲に点在する古びた農家、校庭で遊ぶ近所の子供は今時珍しく枯れ枝でチャンバラ。随所に「昭和」の雰囲気を感じる廃校だった。


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ゴールデンウィークといっても雪が残る東北山間部。寒さに弱いためこの時期、東北でのキャンプは避けたいもの。
屋根と暖房のある格安の宿泊設宿を昭和村周辺で探した結果、今夜の宿泊先も廃校となった。時刻は午後1時過ぎ、チェックインまでには時間もあるのでさらに奥地を目指すことにした。
次の目的地は会津山中にある銀山跡。


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喰丸小学校を発ち再び峠道へ、次第に増える積雪、続いて現れた冬期通行止めの看板に焦らされたものの、幸いにも道路上は除雪され進む事がでできた。この博士峠、現在足下でトンネルが掘削中らしくこの道はいずれ旧道となると思われる。



ダム湖畔を走り続けやがて眼下に広大な会津平野と磐梯山の勇姿が広がった。このまま進めば猪苗代湖に行き着くが、今回はここから左折、曲がりくねった狭道が続く山中へと車を進めて行く。対向車もまったく現れない山中に時折現れる数棟の集落。雪に覆われる厳冬期はどのように生活が営まれているのだろうか。


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一旦は銀山跡への道を見失ったものの、地図に掲載されていない新道に行き着きたどって行く。
すると山を上りきった稜線で開けた空間が現れた。深い山中に不釣り合いな怪しい広場。廃屋が点在するダート道を進んいくと山の斜面に茶褐色の建造物が見えた。


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芽吹いたばかりの緑の合間にすくっと建つ茶色いレンガ。これが銀山に残された唯一の遺構、旧大煙突。目的地、軽井沢銀山跡へ到着。老朽化のためか下部がブルーシートで覆われているのが非常に残念。



かつてこの場所にあった軽井沢銀山、その歴史は長く、明治期からは足尾銅山の礎を築いた古河市兵衛も開発に注力したとのこと。最盛期には産出量は全国第6位に達したものの銀価格の暴落によって採鉱停止。廃鉱後、不要になった鉱山施設は足尾に送られたと看板に書かれていた。昨日徘徊した栃木県足尾銅山とはるか離れた現在地、福島県山中の銀山が関連しているとは驚きだった。

山中にあるこの平坦な空間、往事には鉱員住居や鉱山施設が密集していたと思われる。銀山との関連は不明だが現在も周辺には数棟の廃屋が残されている。

軽井沢銀山大煙突2017GW0408.jpg
軽井沢銀山大煙突2017GW0407.jpg


鳥の鳴き声が響くだけの人気のない山中を歩き煙突の真下へ。煙突上部は崩壊、足下には細かく砕けた煉瓦が散乱している。頭上から落下してくる煉瓦に直撃されたらたまらないので少し離れて観察。





1886年に精錬用として建設された煉瓦造りの溶鉱炉煙突は高さは25m、見上げるとなかなか大きい。先端を空に向け真っ直ぐ建つその姿はまるでオベリスクのようなモニュメントにも見える。


軽井沢銀山大煙突2017GW0409.jpg
軽井沢銀山大煙突2017GW0410.jpg


奥に目をやると新緑の森にズリ山らしき斜面が見えた。山をよじ上り探索しようかと一旦は足を向けたものの時間もないため諦めた。
車へと戻る帰路、カメラのフィルターがレンズから外れてしまった。丸いフィルターは意志を持つかのように岩だらけの斜面をコロコロと転がっていく。その先には沢。あっけにとられながら目で行方を追っていくと、案の定フィルターは沢に落下。雪解け水が流れ込む凍えるような水に腕を浸し水中からフィルターを救出するはめになった。



宿泊先の廃校に向かう道中、再び喰丸小学校跡を訪れた。

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西日に包まれた日没寸前の廃校。さすがにこの時間、訪問客の姿もなく校庭は静まり返っている。午後5時過ぎ、西の稜線へ落ちる日差しが木造校舎を照らし出し、すべてのものが立体的に浮かび上がった。


喰丸小学校跡2017GW0413.jpg
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18時。日が暮れた山中を走り昭和村の隣町にある廃校を改装した宿泊施設に到着した。案内されたのは「4年」と書かれたかつての教室跡。窓からは薄暮に包まれる山桜の群落が一望できた。


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四日目。暖房もよく効き、布団も快適、非常によく眠れた。
時計を見れば時刻は既に朝7時過ぎ、教室窓のカーテンの隙間から朝の光が漏れている。人の気配を感じ、カーテンを開けると朝の光に包まれる里山には三脚とカメラの砲列。彼らの視線の先には夕方見た山桜の群落。


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宿泊料金の安さが決め手でこの宿に泊まったため、まったく知らなかったが実はこの廃校周辺、山桜の名所として有名な場所だったらしい。そして偶然にもGWのこの時期が山桜も満開、見頃だと言う。
2階から観察しているとカメラマン達は三脚とともに微動だにせず桜を狙い続ける。山桜の魅力はよくわからないが自分も一応窓から撮っておこう。

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今日はここから会津へと北上予定。
その後、会津、新潟方面へでGW残り二日間を過ごす事となった。多くの場所を徘徊したものの、サイトに掲載するほどマニアックな場所ではないので、2017年GW編はこのあたりで終了。

西日本を回る例年のGWとは異なり、関東から南東北へと北上したため初夏から春へと季節の逆戻りを目の当たりにした新鮮な徘徊だった。

[了]


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