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●2000年春/パキスタン徘徊 Part.5〜ペシャワール編〜

  • 2015/01/10 21:44
  • Category: 海外
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7000m級の山々が連なるパキスタン北部にある桃源郷フンザ。
居心地のよいこの村でトレッキングを始め健康的な日々を楽しんでいたものの
従来の移動癖が次第に頭をもたげ始め、翌朝のバスで次の目的地、ペシャワールに向け山を下りることにした。
まずはバスの始発でもあるギルギットの町へと向かう。


photo:MINOLTA X-700 28mm/50mm/135mm

[前回の記事]

Gilgit Islamic Republic of Pakistan


パキスタン北部山岳地帯を去る日がやってきた。

山裾に広がるフンザ集落のふもとから出発する例のハイエースに乗り込みギルギットへと下る。
往路は唯一動かせるのは頭だけという恐ろしい定員オーバーを体験したこのハイエース、覚悟して乗り込んだものの朝一ということもあってか乗客はほとんどおらず拍子抜けしてしまった。
次々に現れる夕日に照らされた名峰に興奮しっぱなしだった往路に比べ帰路は緊張感、さらには高揚感も薄れたのかすぐに眠りにつき目が覚めるとギルギットへ到着していた。


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ギルギットバスターミナルの壁に書かれた時刻表。
左が時刻、次が目的地、最後がバスの種類、ノーマルやデラックスがあるようだ。うまい具合に12時30分発のRWP(ラワールピンディー)行きのデラックスバスがある。往路はバス代をけちってノーマルに乗った結果、さんざんな目にあってしまったのに懲りてデラックス夜行のチケットを購入。

さらに隙間だらけのバスで寒さに凍え一睡もできなかったことを反省しパキスタン人を見習い市場で毛布を買い込んだ。
この毛布、民族風のおしゃれな柄で日本に持って帰るつもりだったものの、帰路バンコクに置き忘れてしまった。




ラワールピンディー行き夜行バスの椅子に座り早速車内廻りを確認、今度は窓周辺に隙間やひび割れはない。行きにあれほど自分を悩ませた冷気も入ってくることもないだろう。さらにデラックスだけあってバス内には暖房も完備、買い込んだ毛布も残念ながら出番は無さそうだ。
このバス、往路と大きく違うのは運転席の脇にはライフルを持った軍人のような男が二人乗っていることだ。乗客に聞くと男達はバスの警備員、要はボディーガードなのだという。

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急峻な渓谷を走るこのカラコルムハイウェイ、山賊のメッカとも言われており数日前も路線バスが襲撃を受けたばかり。
走行中時折バーンという銃声が谷底に響き渡る。その都度、山賊の襲撃かと身構えるもボディーガードが怪しい人影に向け発砲する威嚇射撃だ。

ボディーガード付き豪華?デラックスバスは、襲撃を受けるこなく深い渓谷に刻まれたカラコルムハイウェイをインダス川に沿って下り、往路のようなトラブルも起こらず翌朝無事ラワールピンディーバスターミナルに到着した。



パキスタンといえばチキンレースを繰り返す暴走バスが有名だと聞く。
あの旅人のバイブル、沢木耕太郎の深夜特急でもこのあたりで暴走バスに乗ってしまい肝を冷やすシーンが何度か登場する。ところがパキスタンに入国してして既に2週間、いまだ暴走バスとやらに出会ったことがない。どのバスもクラクションをがんがん鳴らすとは言えそれでも予想していたよりもずいぶんとおとなしい。暴走バスは深夜特急が書かれたはるか昔の話なのだろうか。

しかし、この日、ついに暴走バスに乗り合わせてしまう時がきた。区間はラワールピンディーとペシャワールの間。
適当に買ったチケットで乗り込んでしまった名物ギンギラバスのドライバー、何が気に入らないのかクラクションを鳴らし続けひたすら前のバスやトラックを強引に追い抜き続けていく。とはいえこのあたり、砂漠の一本道というわけでもなく見通しのきかないカーブもあるし当然対向車だってやってくる。

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自分の座席は運転席の真後ろ。
おかげでシールがべたべた貼られたフロントガラス越しに前方の様子もよく見えてしまう。
対向車も迫り来る暴走バスに敵愾心を燃やされるのか絶対に避けようとせず突っ込んでくる。もうだめだと何度思ったことか。暴走バスにささやかなスリルを期待していた自分はやはり馬鹿だった。ペシャワール到着までの数時間、このバスに乗ってしまったことを何度後悔したことか。

ちなみにこのドライバー、普段から怒り狂っているわけでもなく、休憩時間には記念撮影には気安く応じる気前の良さ。人格が変わるのはハンドルを握った時だけのようだ。

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名誉のために言っておくと写真のドライバーは別人です。




Peshawar Islamic Republic of Pakistan

辺境の地、ペシャワール。
人の良い住民、美しい大自然に心が洗われるようだったフンザとうってかわり、柄が悪そうなアウトローな街だが個人的にはパキスタン訪問で最も楽しみにしていた場所のひとつ。

この1年後、アメリカ中枢が攻撃を受けた同時多発テロに端を発したアフガン戦争が起こり、ペシャワールはタリバンが支配する謎の国アフガニスタンに通ずる唯一の窓口として入国を目指すジャーナリストで溢れかえることになる。
自分が訪れた当時は散発的にテロが発生していたもののそこまで治安の悪さは感じられることはなかった。

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暴走バスからふらふらになって降りると重いリュックを背負いピンディーの情報ノートで当たりを付けておいた町外れの安宿へたどり着いた。宿帳に記帳しているとオーナーらしき横柄な親父からおまえの英語力はその程度なのかと馬鹿にされる。こればかりまったくその通りなので言い返す言葉もない。

ところがやつが帳簿に記入しはじめると立場は逆転した。この親父、英語は話すくせに「JAPAN」すら読むことができないのだ。しかもアルファベットも書くことができないのかパストートに印刷された「JAPAN」の文字をじっと見ながら、曲がりくねったJやPを宿帳に必死に書き始めたが、三文字まで進んだところであきらめペンを放り投げた。仕返しもあっておいおい書けないのかよと言ってみると横柄な親父は初めて恥ずかしそうな顔を見せた。

この親父、おそらく英語を基礎から習ったこともないまま宿の経営者という立場上、次第に英会話を覚えていったのではないだろうか。一方自分はといえば義務教育で英語を6年間も強制的に習いながら会話はろくにできないまま。一体どちらが良いのだろう。



安宿の庭では数人の白人がトランプをしている。彼らに誘われチャイを飲みながらしばらく一緒にゲームを楽しんでいたものの、次第に気分が悪くなってきた。
実はフンザ滞在中から咳が多発するようになっていた。凍えそうだった夜行バスと暖房がなかったフンザの宿で風邪をこじらせていたようだ。昼間だというのにドミトリーのベッドに潜り込み頭から毛布をかぶる。外国での病気ほど心細いものはない。しかもここはパキスタンの辺境の地。
毛布をかぶっても熱のせいか寝ることもできずひたすら寝返りをうっていると先ほどのフランス人女性がやってきて何かを差し出した。よくみるとビンに入った風邪薬。ありがたくいただく。心細い時に限って他人のやさしさが身にしみる。



夜が明けると気分も回復、ベッドから起き上がると身支度を調える。今日はこのペシャワールの街でとある人物を探さなくてならない。

その名はババジイ。この男、もちろん当然知り合いでもなく顔も知らない。

実は彼、もぐりの闇ガイドなのだ。
ここペシャワールは市街地を一歩出ればそのほとんどがトライバルエリアと呼ばれる伝統的な部族地帯、外国人立ち入り禁止区域に指定されている。トライバルエリア内は警察はもちろん軍ですら手が出せない無法地帯でもある。1年後に起こった同時多発テロ事件の実行犯とされたビンラディンが潜んでいたというのもこのあたり。

その立地を活かしエリア内には銃密造工場や密輸マーケットが点在している。自分の興味をそそりそうなものばかりだか日本人が単身ふらりと近づけるわけがない。ところがこの自称ガイドのババジイに金を払えばそのような危険地帯へフリーパス入り込めるというのだ。

とはいえ情報ノートに書かれていたババジイに関する情報といえば年寄り、めがね、白いひげ。ただそれだけ。
こんな風貌の男、この町に限らずいくらでも歩いている。そもそもババジイが本名かどうかすらわからない。たったこれだけの情報で見知らぬ他人を外国の街中から探し出せるものだろうか。



ところがそんな心配も杞憂だった。
街中の市場を歩き始めてわずか10分。雑踏から小走りで近づき声をかけてくる老人がいる。
めがね。ひげ。

もしやあんたがババジイか?
聞けばyes,yesとうれしそうに手を差し出してくる。見た目は人の良さそうな小柄な老人だ。
よかった。偶然なのか意外にも簡単に出会うことができた。しかしこのババジイ、なぜ自分が探しているとわかったのだろう。
後で聞いた話だとババジイは町中に多数の手下を従え危険地帯に興味を持ちそうなバックパッカーが現れると直ちに彼の元に連絡が行く手はずになっているという。自分もこの街に到着したときから彼らの監視対象になっていたのかもしれない。

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【眼鏡、ヒゲのババジイ。アフガン難民キャンプにて】




とりあえずガイド料としてルピーを前払い。いよいよ謎のババジイツアーのスタートだ。

さてどこに連れて行かれるのだろうか。もしやタクシーかランクルでもチャーターするのかと淡い期待を抱き着いて行くと到着したのはペシャワールのバスターミナルだった。やはり自前の車などあるわけがないか。


彼と一緒に切符を買い路線バスに乗り込むと、まずやってきたのがペシャワールの町外れにある闇マーケット。
ロシアやアフガンからの密輸品、コピー製品を扱う巨大市場。カメラから時計、家電までなんでもそろう。とはいえ何かを買う予定もないし市場にはあまり興味がない。

と伝えると次の場所へ連れて行かれた。その場所は銃密造工場。怪しい建物の一角で民族衣装をまとったひげの男達が黙々と銃を作り続けている。

こちらは非常におもしろい。工場と言っても大がかりなものではなくまるで町工場。
もちろん重機械のようなものは存在せず、すべてハンマー等での手作りだ。興味深そうに眺めていると男達が銃を分解し仕組みを説明してくれた。ここで生産された大量の銃はハイバル峠を越え隣国アフガンに流れ込むのだろうか。

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それにしてもこのババジイ、その顔の広さに驚かされる。
闇マーケット、銃工場、難民キャンプ、どこへ行っても顔パス。しかもかなりの権力者なのか、ババジイを見かけると駆け寄ってわざわざ挨拶してくる男たちまでいる。

そのくせ威厳というものはまったくなくやたらと人なつっこい。さらになにかと自分の写真を撮ってくれ、とどこか子供もような一面もある。カメラを構えるとどうだ!とうれしそうにカラシニコフを構えて見せた。
しかし格好付けたつもりが弾を込める弾倉がないのでどこか締まりがない。この間が抜けた感もどこか憎めない。


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おまえも撮ってやるというのでババジイに一眼レフを渡し銃を構えるも、帰宅後現像したらぶれぶれで全然だめだった。
当時はまだフィルムカメラの時代。

そういえば旅が進むにつれ写真が減ってきたのは決して好奇心が摩耗したわけではなく、フィルム残量が怪しくなり撮影を控えるようにしたからだ。今回のパキスタン旅には約30本の36枚撮りポジフィルムKodakDINAを持ち込んだ。
ポジフィルム自体、現地でなかなか手に入るものではなく魅力的な風景を目の前にして何度シャッターを押すことを断念したことか。

今、15年前を振り返り、フィルムなし、画像を液晶で確認、ISO自由自在、さらにフィルム代、現像代いらずというデジカメの便利さを改めて思い知る。同時に浪費を気にすることなく何度もシャッターを切るため、写真一枚に込める思い入れも減っていることも事実。



丸一日かけ外国人はもちろん地元民でも躊躇するような場所を何カ所も周りババジイツアーは終了、別れ際おまえに土産をやると古びた万年筆のようなものを差し出された。金はないというとそれならばプレゼントするという。

万年筆ならば記念にもらっておくかと手にとってよく見ると万年筆に見えたのはなんとペン型密造銃だった。ババジイ曰く今なら銃弾もセットにするという。こんなもの持って帰ったら空港で捕まっちまうぜと断ると本当に残念そうな顔をして出会った市場の雑踏の中へひょこひょこと消えていった。



とまあ不思議な老人ババジイとの一日は終わりを告げた。
その後も数日間ペシャワールに滞在していたのだがどこを歩いていても必ず彼に発見され笑顔で近付いてくる。自分の行動は彼が街中に張り巡らせたネットワークによって逐一監視されていたのだろう。


※2015年現在「パキスタン ババジイ」でネット検索してみるとまだ健在なのかけっこう出てくる。あの怪しいガイドから未だに足を洗っていないようで、相変わらずペシャワールを訪れたバックパッカーを連れ回しているそうだ。その人気ぶりについに偽物まで登場したといく記事もあった。心配なのは病気でガイドからは引退する予定という記事。2000年の当時からして老人だったのだから、あれから15年、すでにかなりの年齢なのではないか。


[続く]
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●2000年春/パキスタン徘徊 Part.3〜カラコルムハイウェイ編〜

  • 2013/10/11 22:23
  • Category: 海外
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ラワールピンディーという街で特に予定もなく
ダラダラと怠惰な日々を過ごしていたがようやく次の目的地が決まり動き始めた。
北部パミール高原の谷間に存在する村、フンザを目指すのだ。


photo:MINOLTA X-700 28mm/50mm/135mm

[前回の記事]

秘境フンザに行くためにはまずは手前のギルギットという街を目指す必要がある。
宿のロビーに置かれた古びた情報ノートによればギルギット行きの夜行バスは、ピールワダイというバスターミナルから毎日夕方出発するという。ずっしりと肩に食い込む重いリュックを背負うと宿をチェックアウト、「スズキ」と呼ばれるスズキの軽トラを改造した乗り合いバスにパキスタン人とともに詰め込まれ郊外のバスターミナルへ向かった。


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混雑するピールワダイバスターミナルでギルギット行きの夜行バスは案外簡単に見つかった。
所要時間は20時間程度と聞く。出発は数時間先。

パキスタン名物ギンギラバスを撮影している間に日は傾きようやく出発時刻となった。ギルギット行きのバス、周囲に停車しているギンギラバスならどうしようかと心配だったものの、幸いなことにやってきたのは見た目も立派な大型バスだった。しかし安心感もこの数時間後潰えることになる。


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バスはピンディー市街地を抜け農村、灌木が点在する平野を北へと順調にひた走る。そんな広大な光景をぼんやりとした薄暮が包み込む。遠近感とコントラストの弱い夕暮れの光景と心地よいバスの揺れが眠気を誘い、次第に眠りに落ちていった。翌朝、目覚めた頃には雄大なカラコルムハイウェイを走っていることだろう。



ざわついた気配に目を冷ました。
気がつくと走っているはずのバスは停車、座席は乗客のざわめきに包まれている。薄汚れた窓から見渡すといつの間にか夜となり周囲は漆黒の闇に包まれていた。いったい今は何時だろう。腕時計を見ると出発から2時間もたってはいない。
窓から見下ろすと男達が車体下部にむらがり、エンジン部分をのぞき込んでいる。まさか故障?



故障したバスは数時間たっても一向に直る気配はない。乗客の一人に地図を見せいったい現在地はどこなのだと聞きショックを受ける。山岳地帯どころか出発地ピンディーのピールワダイバスターミナルからからわずか30kmほどしか進んでいない平野の真ん中。


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一向に進展しない修理にバスから降りる。
エンジンを覗き込んでみたり、近くにあった茶屋で他の乗客共々時間をつぶす。
しばらく話し相手になってくれた茶屋の少年。

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そのうちに運転手らしき男の一人が逆方向に走る車をヒッチハイクするとそのまま走り去り去っていた。ついにバスの修理をあきらめ、出発地のピンディまで戻り変わりのバスを連れてくるようだ。いったい到着、いや出発はいつになるのだろう。その悠長さにため息をつきながらもこれがパキスタンなのだと思い直す。



高まるバスのエンジン音、カーブのたびに体が左右に揺れる。平野が終わり山岳地帯に入っていくのが闇の中でも感じられる。新たにやってきた今度のバスは大丈夫だろうかと心配になるほどのエンジンのうなりが響き渡る。

高度の上昇とともに同時に冷え込みもみるみる増していく。熱気に包まれていたピンディーでは気にならなかった窓の割れ目から冷気が遠慮なく吹き込んでくる。まるで最強設定をした冷房のようだ。

しかも運悪く最も大きな割れ目は自分の座席の窓。
周囲のパキスタン人は皆一斉に毛布をかぶるが自分は薄着のまま。このような時を想定し彼らは常に毛布を持ち歩いているのだろうか。バスターミナルで購入しておくべきだったと後悔するも、猛暑に包まれていた下界ピンディーではまったく思い浮かばなかった。

しかたがないので眠ってしまおうと目をつぶるもバスが揺れる度、頭がゴツゴツと窓枠にぶつかりまったく眠ることもできない。何度腕時計を見てもぼんやりと浮かび上がる蛍光塗料の針は遅遅として進まない。まだ午前1時。さすがに1時間は経っただろうと再度時計を見るも長針が進んだのはわずか15分。

そのうち悪寒と共に次第に身体が震えだした。夜明けの太陽が待ち遠しい。
寒さと揺れで眠ることもできず、深夜二時をまわった頃、山の中の小さな集落だろうか裸電灯がともった古びた木造小屋の前でバスは前触れもなく停車した。
パキスタンのドライブインといった場所だろう、小屋の前では白い息をはきながら数人の男たちが火でブリキの鍋を温めている。寒さで凍えた体でふらふらと火に近付くと鍋から出されたばかりのチャイを無言で渡される。

顔にあたる白い湯気がの暖かさを感じながらブリキのカップからチャイを口に含むと、たっぷりとミルクが入った甘く熱いチャイが一気に体内へと広がっていった。
身体に染み渡るというのはまさにこのことを言うのだろうか。凍えていた体がみるみる温まるのを実感した。




待ちわびた夜明けともにカラコルムハイウェイはその全貌を現した。

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遙か眼下にインダス川を望む深い谷間に朝日が差し始め、バスのフロントガラス越しには断崖を掘るように作られた道が延々と続いているのが確認できる。
やがて完全に昇った太陽によってバスの車内は暖められようやく風景を楽しむ余裕ができた。

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飽きることなく眼下のインダス川を眺め続けていると、濁流渦巻く茶色い川の断崖上を繋ぐ細い吊り橋が時折現れる。
そのほとんどは半ば朽ちかけ板ははずれロープは川面に向け垂れ下がっている。こんな心細い吊り橋を渡る人間が果たしているのだろうかと注視していると地元民らしき人々が荷物とともに不安定な橋を渡っているのが見える。こんな橋でも対岸同士を繋ぐ生活上不可欠な命綱のような存在なのだろう。

その後もハイウェイとは名ばかりの道がひたすら続く。落石が行く手を塞ぎ、その都度たびバスを停め撤去作業が行われる。バスターミナルで聞いた片道20時間という話はとうに諦めてた。





昼。

遅れを取り戻そうというつもりなど微塵も感じさせずバスはドライブインでのんびりと休憩する。
乗客も気にせず三々五々バスの周囲へと散らばっていく。ドライブインといっても土でかためられた建物に看板がついたくらいだ。一応水やコーラ、菓子類など多少の腹の足しにはなるものは売られている。

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アメリカ発祥のコカ・コーラはイスラム圏でも大人気だ。
前に訪れたイランでは革命前に知ってしまったコカ・コーラの味は忘れられず、かといって宿敵アメリカから輸入するわけにもいかず国産ザムザムコーラを大量生産していた。

店内では魅力的なものも見つからず暇つぶしにぶらぶらと荒野を徘徊中、見つけた薄暗い小屋の中を覗いてみると壁に意外な人物のブロマイドが張られていた。

バスの運転席、食堂の壁、民家、パキスタンではやたらとブロマイドを目にすることが多い。
登場人物は歌手であったり、政治家であったりと果てやだれかもわからぬ赤ちゃんだったりと何かと多様だが、今回目にしたのはヒゲが特徴なあの男、ウサマビンラディン氏であった。

ここまでやつの影響下にあるのかと少し驚かされる。
今でこそ世界で彼の名を知らない人間はいないだろうが、2000年当時、彼の名前と顔を知っている日本人はどのくらいいただろうか。(アメリカ同時多発テロはこの1年後)1993年、ニューヨークのWTC世界貿易センタービルを車爆弾で攻撃した実行犯だと噂されていた彼が1年後、同じビルを航空機で再攻撃し倒壊させるとは思ってもみなかった。


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2000年当時、隣国アフガニスタンは完全にタリバン制圧下にありペシャワールからアフガニスタンへの入国は事実上不可能となっていた。
それでも入国を希望するバックパッカーや報道写真家は絶えないようで、後に訪れたペシャワールの安宿の壁にはミッシングしたままの彼らの人相書きが日本大使館員の手によって貼られていた。




遅れに遅れたバスはついにギルギットに到着した。
相次ぐトラブルでいったい何時間遅れだろう。計算するのもいやになるほどの時間がかかってしまった。

ギルギット自体すでにかなりの奥地で、しかし目的地フンザの村はさらに奥、話によればここからミニバスに乗り換えるという。疲れ切った体と空腹を解消すべく露天でモモと呼ばれる餃子のようなものを食べていると、やがて白いトヨタハイエースが到着。

これがフンザ行きのミニバスのようだ。日本車ならば今度こそ故障なしのドライブをのんびり楽しめるるだろう、と思い座席に座っていると続々と乗客が乗り込んでくる。
10人15人、まだ乗せるのか。ついにハイエースの定員は20人を超えた。

ひげ面の男たちの体臭が車内を包むが体はお互いぴったりと密着、数センチたりとも体を動かすことができない。両隣の男のひげがほおにちくちくあたり続ける。身体の中で唯一目だけは動かせるのできょろきょろと外の風景を眺める。
土埃を巻き上げハイエースが走っているのは断崖絶壁上の未舗装路。転落したら身動きのできないまま全員即死だろう。

やがて薄汚れた窓から西日に照らされた巨大な雪山が見えはじめた。日本の北、南アルプスはそれなりに登ったことがあったが桁が違う。むりやり首を動かしじっと山を見つめる自分に気づいたのかどこからか「ラカポシ」という声が聞こえた。後にしらべるとこのラカポシ、標高7,788mという巨大な山だった。3,000m級の日本アルプスなぞ比べものにもならないわけだ。

とはいえこの状態ではカメラを取り出すことなどできるわけもなく、そもそも自分のリュックもどこかへと入り込んでしまい西日に輝いていたラカポシもやがて山の陰へと消えていった。

定員をはるかにオーバーしたハイエースはさらに途中の集落で停車し道ばたで乗客を拾っていく。
当然降りる乗客もちらほらいるが乗る人数の方がそれを上回っている。いったいどこに乗るスペースがあるのかと思いきやドアは閉まるのでなにかこつがあるのだろう。新鮮な空気が車内に流れ込む乗り降りの間だけが唯一ほっとできる瞬間である。


いつまでたってもフンザに到着する気配はない。太陽は稜線に沈み闇に包まれる深い谷間をヘッドライトをつけたハイエースはさらに走り続けた。


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いったいフンザの村はどこなのだろう。
周囲の締め付けは限界に達し次第に息苦しくなってきた。もう限界だと思った頃大きめの集落が近づいてきた。

乗客の隙間からHunzaという看板がちらりと見える。間違いない。助かった。
両サイドのドアが一気に開くと濁りきった車内に冷たい空気がどっと入り込んできた。荷物の隙間から自分のリュックを見つ出しよろよろと車から降りたつ。

暗い谷間には電灯がつき始めた民家が立ち並ぶ。ふと頭上を見上げるとはるか高所に美しくとがった岩山が見えた。

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最後の残照に照らし出された鋭角な岩山はそれだけで疲れを忘れさせてしまう幻想的な光景だ。
見上げているとハイエースに乗っていた男が山名を教えてくれた。

「レディーフィンガー。」

うんぴったりな名前だ。

【続く】



●2000年春/パキスタン徘徊 Part.2〜ラワールピンディー編〜

  • 2013/08/08 22:30
  • Category: 海外
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ラホールの泥棒宿から逃げ出すと
そのままバスへ乗り込み首都の隣の街ラワールピンディーへとやってきた。
とはいえこの先特に予定もなく雑多なこの街で
だらだらと過ごすことになる。


photo:MINOLTA X-700 28mm/50mm/135mm

[前回の記事]

ラワールピンディー。
それなりに活気がある街だ。首都であるイスラマバードが隣接するせいか、昨日までいたラホールに比べると心なしか治安もよいように感じられる。
首都イスラマバードは整然としたつまらない街と聞いていたので訪れる気も起こらず特に予定もなく毎日ピンディー旧市街を歩く。とりたて観光地もないが整備された街に比べ一般人の暮らしを身近に見ることができる旧市街が好きだ。


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パキスタン料理にも飽きた頃、同宿のバックパッカーからケンタッキーがあると聞き向かってみることにした。
地元民にならって線路上を歩き移動する。軌道上にバラックを建てている一家もいるところをみると廃線なのだろうか。

それにしても遠い。廃線を歩き続け疲れ切った頃、彼方に赤と白の店舗が陽炎のように姿を現した。入り口では警備員が銃を構えているものものしい雰囲気。店内には街中でほとんど姿を見ることのない女性も多く、また着飾っているところから皆上流の階層だ。ケンタッキーはこの国では高級料理なのだろうか。とりあえずマハラジャバーガーなるのもを頼んだがなかなか良い味、その後何度か通うことになる。



海外に出ると次第に懐かしく思えるのが日本語である。
持ち込んだ数冊の文庫本を読み尽くし、さらにはリュックの中から出てきたくつぶれた新聞ですら懐かしく丁寧に広げると目を皿のようにして記事を読んでしまう。
日本語に飢えているのは自分だけではないようで宿では、「00号室の00です。本を交換しませんか」なんて張り紙を見かけたりすることも多い。イランの安宿でもよくそんな光景を見かけたもの。

ところがこの国では意外にも町の至る所で日本語を見かけることになった。
それは街中を走り回る日本の中古車である。

輸入した商用中古車の車体に書かれた日本語をあえて残すことで、俺の車は日本車だとアピールしているらしい。下の写真もハッピーショップ大阪店と書かれた車に人々が乗り込んでいく。

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日本車ではない車体に日本語ステッカーを貼り付けることまで流行しているようで、(株)の文字が反転していたりあきらかに文章がおかしかったりと不思議な日本語が多い。

それにしてもこんな怪しげな日本語がどこで流通しているだろうかと思っていたら、市場で日本語ステッカーが売られているのを見かけた。店頭に並べられたステッカーをよく見ると一見日本語のようでひらがなや漢字が妙にうねっている。おそらく写真等から見よう見まねでトレースしたのだろう。逆に自分がウルドゥー語をなぞってもこんな感じになるのだろうな。

もちろん日本語を読めるパキスタン人はいないのだからそれらしければ問題なし。怪しげな日本語を目にするときの不思議な違和感を感じてしまう。来日した英語圏の人間が、街を歩く日本人が着る英語のメッセージTシャツを見たときもこのような印象なのだろうか。


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両替店。
ドルの両替に訪れてみると開店までまだ2時間もあるという。暑さの中歩き回る気にもなれず店頭の日陰に座って店が開くのを待つ。


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時計の針はまったく進まない。
顔の周りを行き交う一匹の小バエ。追い払う気にもなれず目で追っているうちにいつの間にか現れた老人二人が何かを議論を始めたようだ。1時間近くこの二人をぼんやりと眺めているとようやく両替店が開いた。時間が過ぎるのが遅い町だ。



パキスタンで見かけるのは男ばかり。といっても人類の男女比は半々なのだからどこかに女性もいるはずである。
同じイスラム国家の隣国イランではさらに戒律が厳しいシーア派にもかかわらず、男性と同比率の女性を目にすることができた。
街中を女性たちが連れ立ってショッピングをしていたりアイスを食べたり。知り合ったイラン人のオフィスに遊びに行くとチャドルをまとった女性が男性の部下に指示を出しながら仕事をこなす光景に意外さを覚えたもの。チャドルという服装の制限はあるもののどこか垢抜けた感じだったイランに比べ、この国の女性は家の中でひっそりと過ごしているのだろうか。


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パキスタンのチャイ。

イランでは砂糖とともに飲むさっぱりとした味わいのチャイだったが隣国のこの国ではミルクがたっぷり入っている。
どちらも好きだ。毎日チャイばかり飲んでいる。


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やがて日が沈み次第に夜となる。しかしそのまま無事就寝と行かないのがこの国だ。
前触れもなく周囲の一斉に電気が消える。今夜も停電。

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宿の窓から外をのぞくと薄暮の中、暗闇となった街のシルエットだけが浮かび上がる。
彼方では街の灯りが見えるので停電はこの一画だけなのだろう。
暗闇となった室内では本も読めず読みかけの小説をベッドに置きぼんやりと暮れゆくパキスタンを眺める。せっかく海外を訪れたというのに観光をするでもなく毎日あてもなく街を歩き回るだけの日々。


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停電は2時間ほどで復旧する。住民は慣れもので復旧と同時に喧噪が始まり再び街は活気を取り戻していく。



ラワールピンディーも飽きてきた。
ここからどこへ向かおうかと地図を広げる。南部のカラチ。西のアフガン国境。そして北部のヒマラヤ。

南部に行っても見るべきものは海くらいか。しかも遠い。テロも多いと聞く。
というわけでまずは北部のギルギットという街を目指すことにした。ギルギットまではカラコルムハイウェイと呼ばれる山岳道路が通じているという。西の密輸の街、ペシャワール、あわよくばアフガン国境はその後訪れよう。

というわけでラワールピンディー数日目にしてようやく次の目的地が決まり動き始めた。

[続く]

●2000年春/パキスタン徘徊 Part.1〜ラホール編〜

  • 2013/07/26 22:30
  • Category: 海外
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初めての海外一人旅がイランだった。→LINK
出会った人の家に泊めてもらうことを繰り返しおもしろい思いをした旅から数年後、
バックパッカーとして隣国のパキスタンを訪れた。
同じイスラム国家でも隣国イランとはずいぶん違った印象を受けた3週間の短い旅。


photo:MINOLTA X-700 28mm/50mm/135mm


バンコク経由でパキスタン・ラホール空港に到着したのは夜11時過ぎだった。
深夜便での海外到着ほど心細いものはない。もちろん宿泊する宿も決まってはいない。

重いリュックを受け取り、空港の外へと歩み始めた。自らの足で見知らぬ国に踏み出すこの瞬間はいつも気が引き締まる。そんな緊張感と不安な気持ちが交錯しながらロビーのガラス越しに空港の外を見ると、電力不足のせいかほとんど明かりもない真っ暗な空港前には殺気だった多数の客待ちがうごめいていた。

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今となってから振り返ってみると朝まで空港内で仮眠すればよかったのだが、当時はそんな知恵もなく重いリュックを背負い人混みの中へと足を踏み出した。数秒後には殺到する客待ちにもみくちゃにされ、ぼったりタクシーによって怪しげな宿へ送り込まれることだろう。

そんな若者を見て気の毒に思ったのだろう、同じ機で到着したと思われる日本人が自分が予約済みのホテルに一緒に行くか?と親切にも声をかけてくれた。
他に泊まるあてがあるわけでもなく、親切に甘えることにしタクシーに便乗させてもらう。彼は多くを語らなかったがこの国へは何度も来たことがあるようでどこかこなれた雰囲気だ。ビジネスなのか、リュックなどではなくスーツケース。

薄暗いラホールの街を走りホテルに到着した。フロントの男は、予約もしていない小汚いバックパッカーに嫌悪感を抱いたようだったが、日本人の男は粘り強く交渉し部屋を確保してくれた。

さてフロントで料金を払う段になって価格に驚かされた。なんと日本円で一泊5,000円以上。とはいえ親切にもホテルへと連れていき、さらに交渉してくれた彼の手前、値切ることもはばかれ、闇の中改めて安宿を探す気もおこらずそのまま払うことにした。礼を言うと自分の部屋に入る。今までの海外旅では経験したこともない立派なベット、巨大な浴槽付き風呂。これはこれでいいか。たまにはこういう部屋に泊まるのも悪くはない。

翌朝改めてお礼をしようとフロントを訪ねるもあの日本人はすでに出発したと言われてしまった。残念だが広大なこの国ではもう出会うこともないだろう。



ラホール。

インドパキスタン国境に位置する古い街。雑踏、牛、車、大混雑の通りにクラクションが鳴り響く。

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昨夜のホテルに泊まるわけにもいかずチェックアウトすると旧市街を歩き、数件あった安宿のうちのひとつ、ホテルAに泊まることにする。こちらは一泊300円くらい。部屋もまあまあ、値段の割にそんなに悪くはない。なんと温水シャワーまである。これならばしばらく滞在できそうな宿だ。

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やがて日も傾き夜となった。
宿探しに歩き回ったせいか疲労もたまり、そろそろ寝るかと読んでいた小説をたたもうとすると突然ドアがノックする音が響いた。

こんな時間にいったい誰だ。不審に思いながら恐る恐るドアをあけるとフロントにいた浅黒いめがねのマネージャーが立っていた。用件を聞けば宿のオーナーがあなたに会いたがっているというではないか。寝ようと思っていたもののなんだかおもしろそうなので行ってみることにする。男を一旦部屋から閉め出すと念のためカメラを持ちポケットに財布を入れ部屋を出る。



連れて行かれた階下の大部屋にオーナーがいた。
これまたゆったりとした国民服がはち切れんばかりのでっぷりと太った浅黒い男だ。にこやかに握手を求めてくる。悪い男でもなさそうなのでこちらも手を握り返す。椅子に座るよう指示されチャイを出され、さて何のようだと身構えると英語で何か話し始めた。

どうやらこのホテルの自慢を始めたようだ。これぐらいの話ならば自分のつたない英語力でもなんとか聞き取ることができる。さらに彼は奥から古びたノートを持ち出して開いて見せた。のぞき込むとくたびれたページにはペンで書かれた英語の文章が並び、中には日本語もある。

オーナー曰くこのノートに今まで宿泊した大勢の客が感謝の声を綴っていったという。どうやらノートを客引き用の餌として使用しているらしい。
おまえもなにか書けといわれるが、到着したばかりだし書くこともないため、まずは読んでみようと何気なくページを開いた。英語は読む気にならないので日本語のページを探し開くと衝撃を受けた。

目につくような大きな日本語で「この宿は泥棒宿!」と書かれていたのだ。

その後もページをめくるたび「ここのオーナーは大嘘つき」
「このホテルは泥棒宿」「気がついたら金を抜き取られた」
「他のバックパッカーにも知らせてください」など日本人の悲痛な叫びが多数綴られているではないか。

腹立たしい気持ちを訴えるように殴り書きが多い。
オーナーは当然日本語の読み書きはできないので何が書かれているのかまったく知らず、日本人客がノートに書いた我がホテルへの賞賛の声だと信じ切っているようだ。英語のページにもおそらく同じようなことが書かれているに違いない。いやさすがに英語は読めるだろうから被害に遭うのは日本人だけなのだろうか。

どうだすごいだろうと頷きながら先を読むように催促する。そのうちぞっとする文章に出会った。

「まずオーナーに呼び出される。その間に合い鍵で部屋に従業員が入り込む」

あわてて、しかし気付かれぬよう静かにポケットを探る。よかった財布はあった。パスポート、航空券は首。カメラも持っている。残りは着替え、本、地図、未使用フィルムなど最悪どうでもいいものばかり。幸い到着しわずか二日目、撮影済みフィルムはまだ手元のカメラの中。



後に他のバックパッカーから聞き初めて知ったがパキスタンラホールは泥棒宿で有名な街。中でも今自分が泊まっているホテルAはアジアを行き来するバックパッカーの中でも名を馳せた泥棒宿なのだそうだ。

インド国境に位置するラホールはアジア横断には不可欠な街、しかしこのような噂もあってか旅慣れたバックパッカーは通過のみで宿泊はしないとのことで、逆によく泊まったねえと感心されたが知っていたら泊まるわけはない。また数年後、本屋で立ち読みした世界の危険地帯だとかいう本にも最も危険なホテル街と紹介されていた。無知とは恐ろしい。





俺の写真を撮ってくれというオーナーを適当にあしらい、部屋に戻りあわててリュックを調べるも変わった感じはない。まあ仮に部屋に侵入されたとしても着替えなんかには興味はなかろう。貴重品を持ち出していて助かった。

おそらくインドまでのわずかな距離がこの町ラホールの混沌さの原因だろう。
通貨交換、輸出入、そして密輸。後に訪れた国境の町ペシャワールもこのように混沌とした街だった。

それにしてもパキスタン到着翌日から油断も隙もない。こんな街は逃げ出すに限る。翌朝地図片手にバスターミナルを探し始めた。ところがどうやっても見つからない。聞いてみるとなんと数日前に移転したのだという。見つからないわけだ。




砂漠のドライブイン。
長距離バスから降り身体を伸ばし休憩しているととぼとぼと老人がやってきた。確かバスの向かいの座席に座っていた男だ。地面を指し自分を指しさらにカメラを指さし何か話し始める。

この世界も、おまえも、おまえのカメラもすべてアッラーが作った。
だからおまえもイスラム教徒になれ。

うーむ。あまり気乗りもしないなあ。これが他の国の人ならば一気に宗教論争が燃え上がるのだろうが、日本人は基本的に宗教心が低いためこういった話は盛り上がらない。

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ラホールから半日あまり、バスはようやくラワールピンディーという街のターミナルに到着した。
とはいえ泊まる予定の宿もない。さあどうしようか。イランではバスターミナルで途方に暮れていると大概親切なイラン人がやってきて、ホテルを探してくれたり家に泊めてくれたりもした。
期待していたわけではないが白いひげの老人が声をかけてきた。おまえは宿を探しているのか。ちょうどいいまあついてこい。

歩きながら自分のことを指さしベラベラと英語で話しかけてくるがいまいち言っていることが不明瞭だ。そのうち業を煮やしたのかなぜか持っている英語辞典をめくり始めとあるページを指さした。
彼が指さした先を読んでみると

「gay」

こんどはゲイか。いやあ心が安まらない。親切な人ばかりだったイランに比べ隣国パキスタンは怪しく癖のある人間でいっぱいだ。なんだかおもしろくなってきた。

[続く]

●1998年春/イラン徘徊 Part.7〜テヘラン編〜

  • 2013/02/01 22:49
  • Category: 海外
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初めての海外一人旅で訪れたイランを
ダラダラと放浪しすでに1ヶ月近くが過ぎた。

やがてテヘランにもどった自分は知り合ったイラン人宅に泊めてもらうことになった。
彼らと日常生活を送りながら観光をするでもない不思議な毎日を過ごしてく。

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当時日記代わりのノートに
書いた渋いホメイニ師。
これをおばあさんに見せると
ふにゃららーとお祈りを始めた。




[前回の記事]

イスラム国家では女性は差別・抑圧されているという。
確かに後年、訪れた他のイスラム国家では町で女性はほとんど見かけず、自宅でひっそりと生きる「影」のような存在であった。
しかし最も教えが厳格なシーア派国家イランで見た女性達は他のイスラム国家とはどこか違っていた。
チャドルと呼ばれる服装の制限はあるものの、カフェでアイスを食べたり買い物を楽しむ女性達。

テヘランの女子高生達は少しでもおしゃれをしようとチャドルを短く折り曲げたり前髪を少し出してみたり茶髪にしたり。知り合ったイラン人のオフィスに遊びに行ってみるとチャドルを来た女性がパソコンを使いこなし部下の男性にあれこれ指示を出す。車の一方通行を巡り男性と大声で言い争うおばさん達。いろいろな意味で驚かされる光景だった。



同時に多くのイラン人の自宅に泊めてもらう機会が多く、普通の旅行では知ることのできない家庭でのイラン女性の様子も知ることもできた。
普段真っ黒のチャドルで体を覆っているイラン人女性も、宗教警察の目の届かない自宅へ帰宅すると真っ先にチャドルを脱ぎ捨てる。



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いったいチャドルの下は何を着ているのだとどきどきしながら見つめると意外にも普通の服装。中にはタンクトップでガンガン音楽をかけ踊ったりしている女性なんていうおもしろいギャップも見ることができた。

この写真、チャドルをまとった怪しい女・・・、と思いきや実は自分(男)。泊めてくれた家のお母さんが、試しに着てみたら?と貸してくれた。
まとい方を教わりながら苦労して着てみると見ての通り少々暑苦しいのだが、これが逆にイランの強い日差しの下では日焼けよけにはなるのかもしれない。この格好で居間に姿を表すと女性陣からは似合うねえの声をいただくことができた。



そういえば昔、地理の授業でイスラム教徒は1日5回お祈りすると習ったがこの規則をしっかりと実行していたのは唯一この家のおばあさんだけ。他の家族がお祈りを行っている姿はついに見ることはなかった。他の町でも、知り合った日本語使いに突っ込んでみると笑いながら日本語で一言「だってめんどくさいもん」。


革命で世界を震撼させ、ホメイニ師が君臨し、イスラム国家の頂点に立つ厳格なシーア派宗教国家イラン。そんな国を実際に訪れ、彼らの生活に入り込んでわかったこと。そう。みんな結構適当なのだ。宗教的制約が多いのも事実だが、特に大都市テヘランあたりの市民はそれを適度にあしらいながらたくましく生きている気がする。




それにしても国民のあか抜けた感じはどこから来ているのだろうか。
1979年。市民の熱狂で独裁王政が打倒され宗教国家が成立した。しかし革命前は一時期とはいえ自由な空気もあったのは事実。当時のテヘランの映像を見ると若者の服装、街並みは西側諸国と変わらない。
国民の意思で革命が行われたにもかかわらずその熱気も醒めた今、あの時代を懐かしむ声も多いと聞く。他のイスラム国家とどこか違った違和感を感じるのは、数百年にわたり厳しい信仰が続く他国と違い、わずか30年ほど前、国民が一度経験した「自由」があったからなのだろうか。





そんなことをしているうちにイランにも正月がやってくる。
といってもこちらではキリスト誕生から数える西暦ではなくイラン暦が使われている。


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今年もあと数日という夕方、知り合ったイラン人のひとり、ムハンマドさんとテヘランの市場を見に行ってみる。関係ないがイランではあの予言者と同じ名前「ムハンマド」が異常に多い。そんな大物の名前を名乗って大丈夫なのかと心配になるがあまり気にしてはいないようだ。

さてサヴァリと呼ばれる乗り合いタクシーで街中まで降りてみると年末の慌ただしい雰囲気は日本と変わらない。そんな道ばたの広場でさらに多くの人だかりを見つけた。

人をかき分けムハンマドさんとのぞき込むと、どうやら中央で何かをしゃべっている上半身裸のヒゲの大男が大道芸を実演しているようだ。そばに置かれたボロボロの乗用車の運転席にはヒゲ男の息子らしき少年が乗り込んでいる。
なんとこの少年が運転した車で道路に横になった自分の体をひかせてみるという。

車がヒゲ男の体を通過し、怪我もなければ拍手喝采、というありきたりなストーリーなのだろう。
いよいよエンジンが始動し、少年が運転する車が仰向けに寝そべる男の体の上を通過した。
思わず目をつぶってしまう。

果たしてヒゲ男は無事なのか。

とはいっても、しょせん芸なのだから無事なのはあたりまえ、すぐに立ち上がり金を集めるのだろうと他の観衆ともども男に目をやると身悶えし痛がっている。どうせ客を驚かすための演技なのだろうと安心して見ていたが、立ち上がることができずいつまでも地面で倒れている様子を見るとどうも演技ではないようだ。予定していた場所とは違う部分をひいてしまったのだろうか、あわてて運転席から降りてきた少年がヒゲ男のもとへ駆け寄った。


あきらかに大道芸の失敗。しらけた雰囲気が広場を包み、ふと気が付くと周囲の人垣も崩れはじめていた。痛がりながらなんとか服をまといはじめたヒゲ男を尻目に車を運転した息子らしい少年が金を集めにきたが、大道芸の失敗を目にした人々は首を横に振り、誰1人として金を払おうとしない。

少年は日本で言えば小学校低学年だろうか。観衆から無視されながら、それでも丁寧に人垣を巡回する。見るに見かねて自分とムハンマドさんが彼の帽子にリアル紙幣を入れた。



帰国後しばらくして、これとよく似た話を読んだ。沢木耕太郎の「深夜特急」ペルシア編だったと思う。道ばたの大道芸人が鎖を切るに切られず、頼むから切れてくれと主人公が冷や冷やしてしまうという話だったように思うがそれから30年後、同じイランで同じ様な経験をした。

醒めた視線の中で服を着始めたあのヒゲ男、そして息子の心境を思うと人ごとだというのにどこかいたたまれない気分になって落ち込んでしまう。

冷たい風が吹き付けるテヘラン。年末の底冷えがやりきれない心境を増幅させる。見知らぬ外国。初めての一人旅。もしこれが1人であったならばこの心境に耐えきられなかったのかもしれない。しかしさまざまな偶然が重なって、異国人である自分と一緒に過ごしてくれる人々がいる。本来ならば寂しく過ごすはずであったイランの年末、年始は大勢の人と越すことができそうだ。買い込んだ食材を二人で抱えてテヘラン郊外の自宅へ戻る。

いよいよ大晦日。

ここ数日泊めてもらっているムハンマド家では果物や野菜をペルシア絨毯の上に並べおばあさんがなにやらお祈りを捧げている。イラン版紅白でもやっていないのかと日本製テレビをつけてみると最高指導者ハメネイ師が偉そうに説法を延々と話している。おそろしくつまらないので瞬時に消す。他の家族も同感だそうだ。




イラン暦1377年1月1日(キリスト教の西暦では1998年3月21日)ノールーズ、元旦。
年が明けるとムハンマド家にも年始の挨拶に大勢の親戚が集まってきた。このあたり、日本と変わらない。

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日本で年始の挨拶に言った親戚宅にイラン人がいたら驚かれることだろう。逆にムハンマド家には怪しい日本人が1人混ざっているのだが、不思議なことに誰も驚かない。みなでサッカーをやったり記念写真を撮ったり。

しかしその中にまた自称英語の教師という親戚が混ざっており(なんで毎回英語教師が現れるんだ)英語の善し悪しを再びウダウダ言われる羽目になった。
毎度のことながら英語ができるイラン人はどうもそれを自慢する傾向が強いようだ。こいつとはちょっと距離をとり他の奴らと遊ぶことに。



今日は朝からイラン人の町内フットサル大会に呼ばれることになった。

ちょうどこの数ヶ月前、フランスワールドカップ最終予選ジョホールバルの悲劇というのがあり(日本では歓喜)その鬱憤を晴らすためかイラン人全員が本気でかかってくる。


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多少は脚に自信があったので日本人の力を魅せてやらねばと挑むもわずか数分で息が切れはじめ、思うように体が動かない。そう、テヘランの標高は1500m。
しかもこの住宅地はさらに標高が高い北側の斜面。当然空気が薄いのだ。到着したばかりの人間がここに数十年住んでいる奴には勝てるわけがない。コートを走り回ることわずか10数分。ギブアップ。交代を申し出る。

これが日本人の実力だと思われてしまったとしたら悔しい限り、情けなくて日本代表に顔向けできない。試合終了後、片言の英語やペルシア語で会話をするも皆日本のサッカーに詳しく驚かさせられる。日本代表選手はもちろんJリーグチームや選手もかなり知られている。こちらが唯一知っているイランの英雄アリダエイのことを誉めると皆大喜びしてくれる。


やがて日も傾きここ10日ほど泊めてもらっているムハンマド家へと帰路につく。

もう通い慣れた道。
地元民しか知らないであろう裏の抜け道に入るとここ数日、知り合った顔に次々出会い挨拶。



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しかし俺は遠くイランまでわざわざやってきて何をしていたのだろう。ここテヘランにだって観光地は多数あるというのに、人質事件の舞台となった旧アメリカ大使館以外一つも訪れず下町のイラン人と遊び歩く毎日。

やがて夕焼けがテヘラン北部の住宅地をつつみこむ。門をくぐり家へと戻ると家族がおかえりと言ってくれる。本来ならば誰も自分を知る人間がいない遠いイランでこうして待っていてくれる人がいる。





テヘラン、メヘラーバード国際空港。16時。ついにイランを発つ。

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上着をペナンに忘れTシャツで到着した吹雪の空港で不安と重圧に押しつぶされそうになっていた自分を優しく迎えてくれたこの国の人々に感謝。初めての海外一人旅だった自分が、一度もすりや盗難に遭うこともなく旅ができたのも、運、そして現地の人々の親切があったからであろう。

同時に厳格のイメージとはかけ離れた国民の生の姿を見ることができた貴重な旅でもあった。イラン航空の古びた機体が滑走路を動き始めると同時に強い疲れを感じ眠りに落ちていった。


無事に帰国できるとほっとしたのもつかの間、この10時間後、リコンファームに失敗したのかトランジット先のクアラルンプールで日本行き飛行機に座席がないという悲劇が。カウンターでIt's fullと冷たく答える某航空の担当者に片言の英語で泣き落としで頼みこみ、定刻の数分前になってなんとか関空行きに空きが見つかり滑り込む。
こんどこそ本当にゆっくり眠ることができるだろう。

【イラン編了】

今から15年前の記録なので現在のイラン事情とは変わっている可能性があります。
※また時間ができたらパキスタン編をアップしていきたいと思います・・・。





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