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●2020年11月某日/晩秋の旧街道、大平宿跡。

  • 2020/12/05 22:22
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長野県山中にある大平宿は日本で最も有名な廃村ではなかろうか。
自分が「廃村」という存在を初めて知ったのも大平宿だ。
子ども時代、なにげなく読んだ雑誌にいろり端で宴会にふける人々の写真が掲載されていた。
その建物がある場所が大平宿と呼ばれる無人となった村、いわゆる廃村であると説明が書かれていた。
しかし大平宿は自分が好むいわゆる放棄された場所ではなく
「整備された廃村」「観光地」のイメージが強かったためこれまで近付くことはなかった。
ところが今回、たまたまキャンプ場ロケハンに近隣を訪れたついでに大平宿に
寄ってみたところ予想以上に良い雰囲気、さらには木造校舎の廃校まであり
長い間訪れなかったことを後悔したのだった。

photo:Canon eos7d 15-85mm


9月10月の休日の多くは例によってキャンプばかり、晩秋が訪れ本業の徘徊が動き始めた。幹線道を外れた山中でキャンプ場ロケハンも終了。いかにも熊が出そうな秘境キャンプ場だった。

車を停め車内に常備してあるツーリングマップルを開く。この山道にさらに上った先に「廃村、大平宿跡」と書かれている。存在自体はもちろん知っているが未だ訪れたことのない場所。ここまで来たのならば集落を見学しようと車を山中に向けた。

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下界ではまだ緑がちだった木々も標高を増すにつれて彩りを増し葉を透過する秋の日差しが紅葉をより際立たせる。新緑に比べ紅葉にはあまり興味を引かれることのない自分も思わず車を停めてしまった。



延々と続く山道を登り、傾斜が緩むと同時に木々が途切れ視界が開けた。長野県大平宿に到着。カラマツの林の中に点在する古びた建物が見える。

空き地に車を停め間近に見えた集落跡へ向かおうとした。ところが集落の反対側、林の奥にある縦長の建物が眼に入った。民家ではなく、公共施設を思わせる大型の建物のため、もしや廃校ではなかろうかと歩いて行くと予想通り林を抜けた先に木造校舎が現れた。

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秋空とオレンジ色のカラマツを背景に建つ黒ずんだ校舎は予想以上に大きなもの。とくに下調べも行わず前知識なしで大平宿を訪れたので廃校の出現に驚かされた。帰宅後、調べてみると丸山小学校大平分校の跡とのこと。



校庭の片隅に見える鮮やかな黄色い色の正体は厚く積もった落葉した銀杏の葉だった。葉を掴み空中に放り投げると逆光の光を浴び輝きながら舞い降りた。

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大平分校の標高は1150m。今までに訪れた数多くの廃校の中でも、特に高所にある廃校ではないだろうか。



続いて廃校から離れた大平宿集落跡へ。10数棟ほどの建物が旧道に沿って並んでいる。自分がよく探索する人里離れた林道終点に残る廃村とは違い、大平宿は近年まで人々が通過する街道の宿場町だったため、それぞれの民家のサイズが桁外れに大きい、そして立派だ。まるでロケ地を思わせるたたずまい。

ところで恥ずかしながら初めて子ども時代、雑誌記事でここを知ってから2020年の今日まで大平宿を「おおひらしゅく」と呼んでいた。正確には「おおだいらじゅく」なのだそうだ。

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伊那谷と木曽谷。今でこそ恵那山トンネルや国道が突き抜けるが、かつて二つの谷は縦に伸びる中央アルプスによって分断されていた。
江戸末期、交通困難なこの箇所を打通すべく、新道開拓が行われその中心にある峠付近の高原に集落が作られた。入植した人々は過酷な環境に翻弄されながら森を伐採し厳しい開拓時代を経て宿場として整備された。それが大平宿である。

明治期になっても中央本線を利用したい飯田の人々が街道を利用し細々と存続していたものの、飯田線の開通によって街道は衰退、寒冷地ゆえ農業も行き詰まりも1970年、集団移転によって再びこの地は無人となった。



とはいえ大平宿はまったくの無人という訳でもなくわずかながら人の気配は感じられる。その理由は廃村に宿泊することができるからだ。
ここでは廃屋を放置するのではなく、あえて部外者に開放することで建物を維持している。人の住まなくなった建物は不思議なほど風化が速い。そのため離村した村人は宿泊者を元住居へ受け入れ、定期的に外気を流し風化速度を抑えようとしている。ここを知ったきっかけになった子ども時代に読みんだ雑誌記事も大平宿の宿泊に関する内容だった。

紅葉に包まれる好天の某日。知名度が高い廃村だと聞いていたので大勢の人を予想していたが、2時間ほどの滞在中、すれちがったのは訪問客はわずか数名。
ここに至る道中、多くの観光客で賑わう妻籠宿の横を通過した。一方で大平宿はあまりに山深すぎて観光バスも入れないためか、同じ宿場町とは思えない対照的な雰囲気。だがそれが良い。

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雰囲気の良い古民家のひとつを外から眺めていると、たまたま滞在中だった家主の方が建物内部を見学させてくれた。

歴史を感じさせる分厚く重厚な柱、梁、長年囲炉裏からの煙に燻され続けた黒ずんだ室内に圧倒された。格子窓からは秋の日差しが室内に斜めに射し込んでおり、囲炉裏から煙が立ち上っていたら見事な光線を描いたことだろう。

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屋外の水桶には厚い氷が張っていた。紅葉に覆われる季節もあとわずか、冬の訪れによって大平宿は深い雪に閉ざされることだろう。



居心地の良さに想定以上に大平宿で過ごしてしまい時刻は14時。徘徊できそうな場所は時間的に残り1〜2カ所か。近隣にある定番スポットをいつくか思い浮かべる。そのうちの一つ、長野県大鹿村ならばまだ回れるかもしれない。

ちょうど1年前の同じ11月の晩秋、素晴らしい夕日を眺めた大鹿村高台にある行きつけの例の池は現在、林道通行止めで封鎖中。LINK

となると同じ大鹿村近隣にあるアルプスを望む高台はどうだろうか。現在地からは伊那谷を挟んだ対岸に西日を浴びオレンジ色に輝く山々が見える。あの高度まで車で上れば西日を浴びるカラマツの紅葉が見られるに違いない。とはいえ時刻はすでに14時30分。



タイムリミット迫る伊那谷を走る。秋の日暮れは早く太陽は中央アルプスの稜線に迫っている。先月訪れたばかりの小渋ダムは今回はスルー、ひたすら日が残る高台を目指す。谷間にある大鹿村中心部は完全に日が落ち日影となっていた。

最初の目的地、大鹿村某銀杏。山を登った高台の斜面集落にあるため、逆光に輝く黄色い葉を期待していたが日没にわずかに間に合わず、光が当たっていたのは梢の先端だけ。仕方が無いので2014年11月の写真を掲載。

大鹿村銀杏1444ooshikalinear16.jpg

銀杏から見上げた山の稜線はまだオレンジ色に染まっており日没に間に合いそうだ。ここからは標高が勝負、さらに高台を目指す。

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時間との勝負となるため、カーナビにも表示されない勝手知ったる裏道から高台の鳥倉林道を目指す。しかし数百メートルほど山道を進んだところで無情にも現れた「この先崖崩れ・通行不能」の看板。正規のルートへ迂回しても日没には間に合いそうもない。一か八か、通行不能なら諦めようと車を進め薄暗い林道を上っていく。

確かに小規模な崖崩れはあった。土砂が路面を埋めている。しかし車種によっては行けないこともない。慎重に土砂を乗り越え無事、鳥倉林道に接続することができた。
冬季閉鎖ゲートもまだ開かれており、あとは先月も訪れたばかりの道を進むだけ。高度を上げると日照部分に出た。同時に紅葉が光を浴び鮮やかに輝いた。

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大鹿村紅葉2011nagano0304.jpg
大鹿村紅葉2011nagano0305.jpg
大鹿村紅葉2011nagano0309.jpg

やがて周囲の植栽は、広葉樹からカラマツに変わり同時に周囲はオレンジ色の光に包まれる。
断崖上の空きスペースに車を停めた。ここが南アルプスを山裾から稜線まで見渡すことができるポイント。

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大鹿村鳥倉林道紅葉2011nagano0310.jpg


鳥倉林道はこの先、さらに数kmに渡り続くが実際にはゲートで閉鎖されている。この先は南アルプスを徒歩で目指す登山者しか立ち入れない道。夏場は多くの車が停められているこの場所もさすがにこの時期、この時間、登山者らしき車は皆無だった。

大鹿村紅葉空撮2011nagano0308.jpg
大鹿村紅葉空撮2011nagano0307.jpg

上空からみた大鹿村。
山肌を彩る紅葉、そして本日走り回った伊那谷の山々、そして中央アルプス。先ほど通過した大鹿村中心部はすでに闇に包まれている。太陽が傾くに従い、闇は次第に山裾を登り、やがて高台も闇に包まれると急速に寒さに包まれた。

[了]

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●2020年9月某日/いつもの場所へ。毛無峠で過ごす夜。

  • 2020/10/30 22:22
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夏場、寝苦しい熱帯夜が続く下界から離れて眠る場所がある。
それが標高1,823m、冷気に包まれる高所の峠、毛無峠で行う恒例の車中泊。
今回も毛無峠を起点に新潟、長野、山梨。
廃校をはじめとするいくつかの予定地を徘徊した記録。


photo:Canon eos7d 15-85mm

いつもの場所。群馬長野の県境にある、標高1,823mの毛無峠。
木も生えない荒涼とした高地を風が吹き抜けるこの場所はいつ訪れても霧に包まれていることが多い。猛暑に包まれた下界を離れ午後遅くに到着した今日の峠も群馬県側から湧き上がる霧が流れ続けていた。

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駐車場代わりのダートの空き地に車を停め下界のコンビニで買った食材を調理しながら車中泊の準備を行う。日没直前、強風によって霧が切れると毛無峠へ一筋の光が射し込んだ。視界が開けたのもつかのま、再び毛無峠は霧で閉ざされ、そのまま夜を迎えた。夜間になっても霧は切れず星は今回は見ることができず。

過去に撮った毛無峠の写真はコチラ↓


過去の毛無峠写真

それにしても峠の変貌ぶりには驚かされる。毎年同じ時期に毛無峠で車中泊を行いはや六年。年を経るごとに峠の駐車場代わりの空き地で車中泊を行う車が増加中。
自分が毛無峠で車中泊を始めた初期の頃は、夏場でも夜間になると峠周辺に人の気配は皆無、おそらく半径10数キロに渡り無人地帯となっており、不安な思いをしたものだ。
ところが年々同業者が増加していき、最近は峠に複数のテントを張りキャンプを行う猛者も珍しくはなくなった。2020年の今回は過去6度の峠車中泊で最も車両の台数が多く、例の看板がある空き地の奥は夜半になっても車がひしめき合っていた。とはいえどの車も静かで、さらに熱帯夜とは無縁、シュラフにくるまり安眠できた。


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毛無峠の朝2009kenashipass02.jpg


午前4時、毛無峠で朝を迎えた。
結露した窓を拭くと夜間に峠に到着したのか、さらに多くの車が周囲に停められているのが見えた。車内で寝静まった車中泊中の人々を起こさぬよう静かにドアを開け車外へでると体が冷気に包まれた。

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霧が消え去った無風の峠。朝焼けを背景に浮かび上がる鉱山索道のシルエット。毛無峠で見るいつもの朝の光景。早朝、晴れ渡る峠も多くの夏山のように昼前には雲が湧き、再び霧に包まれるに違いない。朝焼けだけを眺めると日の出も待たず早々と出発、猛暑に包まれる下界へと下る。



緑のツタに覆われた尖塔が特徴的な廃校が新潟県の山間部にある。手前に広がる放置された校庭も草原と化してるようで、廃校の横を通過した撮影車で撮られたgoogleストリートビューでも緑の草原、廃校、夏の積雲、さらには横を歩く近所の親子という映画のワンシーンのような見事な光景の構図の光景が意図せず撮影されていた。
ここならば、緑の草原に立つ偽教会風の廃墟といった写真が撮れそうだと数年前から予定リストに入れてあった廃校だ。

新潟県山間部は廃校の宝庫だ。今回の目的地の周辺にも無数の廃校が点在している。ところがそのいずれも曲がりくねる山道をたどった先の集落に残り、また集落同士が山を隔てているため効率よく回ることができず、10年以上にわたり新潟山間部の廃校群を地道に回り続けているがいまだ予定地の半分も消化できていない。一方で廃校のアート施設化、あるいは解体が進み、いわゆる放置された感のある物件もみるみる減少しているのも現実。



到着して唖然とした。緑の草原が広がるはずの校庭には砂利や鉄板が敷かれ無数の工事車両や重機が所狭しと停められているではないか。さらにはプレハブの工事事務所まで建てられている。

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まさか廃校校舎の解体が行われているのだろうかと近付くと近隣で行われている工事の基地として校庭が使用されているようだ。遠目で見る限りそれほど古さを感じなかった廃校校舎だが近付くと建物全体がゆがみ老朽化が進んでいることがわかる。もちろん尖塔の時計も昼を指して停止したまま。



この廃校周囲の風景は田園や茅葺トタン屋根の民家が点在する新潟山間部の典型的な里山。そのような純和風の風景の中心に、尖塔と赤い屋根とステンドグラスを使用した偽教会風の洋風建築。不思議なミスマッチ感。

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新潟県上越市安塚高校大島分校2009nhigatahako04.jpg

蔦の浸食は上へと続きついにその先端は尖塔に達している。あと数年で建物は緑に飲み込まれてしまうだろう。

ちなみに引いて撮った廃校の全景はこのような感じだ。上に掲載した写真はトリミングして撮ったことがわかる。ここが数年前、ストリートビューで見た緑の草原のままであれば・・・と悔やまれる。

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しかしこの廃校、建物は洋風校舎だけではない。実は建物の裏には別の木造校舎が隠されている。
裏に回ると空撮で確認した通りの二階建ての木造校舎が見えた。こちらは自分好みの昔ながらの日本の木造校舎。建物は黒ずみツタに覆われ廃墟感を醸し出ている。しかし周辺は背丈ほどに生い茂る緑のジャングル。この季節、草に阻まれ、到底到達できそうもない。



かつての診療所医院跡。閉鎖後、木造医院の一部を見学することができる。
以前一度訪れたことがあったが、近隣を通過したので今回は建築的な視点で見てまわった。ここについての考察は多くの方が書かれているので小物などに注目してみたい。木とガラスの組み合わせが目を引く古き良き建物。
しかしのどかさとは裏腹にこの地域に蔓延していた病気を克服した熱い場所でもあるのだ。

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青い空、白い積雲、緑の田、夏の風景が広がる長野県北部。季節は9月だが、まだ夏の光景が残る。県境付近の森の中に残る明治期から100年を経た木造校舎廃校。ガラス越しに覗いた内部は教室と廊下がそのままの姿で残されていた。

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信濃町立古間小学校2009naganohako03.jpg
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信濃町立古間小学校2009naganohako01.jpg
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[了]

●2019年7月某日/石垣島徘徊録、一年前の光景。

  • 2020/07/20 22:22
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本サイトに掲載してある徘徊録は自分の行動の一部、
実際にはこれ以外にも海、川、キャンプを中心に動き回っているのだが
見向きもされない失われゆく場所を徘徊するというのが
本来の運営趣旨のためそのような場所や行動はここ数年に限ってだが排除してある。

今回の沖縄県石垣島旅も実は昨年、2019年の7月に行ったものだが上記の理由、
そもそも写真を整理するのが面倒くさかったというくだらない理由で掲載を見送っていた。
しかし社会情勢の影響で予定していたGWの西日本徘徊を取りやめるなど
そろそろネタも枯渇しつつあるため適当に掲載。


photo:Canon eos7d 15-85mm

数年に一度定期的に沖縄へ出かけてる。本島には見向きもせず一貫して海の透明度が際立つ離島のみ。
2019年7月、台風の合間を縫って何年かぶりに沖縄を訪れた。前回は慶良間諸島だったため今回上陸する石垣島は7年ぶり。とはいえ滞在中のほとんどの時間を海や水中で過ごしため写真もほとんどなく陸上で撮った写真を適当に羅列。


[2019年石垣島編]

2019年7月某日、前回建設途中だった新石垣空港に着陸。東南アジアの空港を彷彿とさせるレトロな旧石垣空港から一転、空間を贅沢に使った近代的なロビーに驚かされながら外に出ると南方の熱気と湿気が身体を包み込んだ。

夏の沖縄旅は台風との戦いとなる。これまでは一年で最も天候が安定する梅雨明け直後を狙い沖縄を訪れる事が多かったが今回は用が重なりリスキーな7月下旬になってしまった。案の定、出発数日前にフィリピン沖で台風5号が発生、しかも南シナ海へ西進と思わせながら直前で北上を開始したため日々、天気図をにらむことに。

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石垣島幻の島1907ishigakijima14.jpg
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リゾートには縁がないので民宿や安宿に泊まり自炊の日々。そして泳いだり潜ったりと島の海と戯れる。
台風5号は到着前日に石垣島近海を通過したため翌日には天候も回復、2日後には波も治まり海に入れるようになった。しかし海初日に7年使用して来た水中用の防水カメラが故障したのは痛かった。撮影できた水中写真はわずか10枚・・・。



島ではこの7年間で大きな変化があった。それは新空港の開設。長い滑走路は大型機の着陸を可能にし、市街地や離島桟橋は数多くの観光客でにぎわっていた。それでも島北部にはまだ静かな光景が残っている。

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石垣島西海岸から見る南国の夕景。人々に混じり日中の熱気が残る浜辺に座って日没を待つ。
ほとんどの人が太陽が沈むと同時に海岸を後にするが日没後もしばらく粘る事をおすすめしたい。この日、割と平凡だった夕日だが上空に薄い巻雲が広がっていたため、何か起こるだろうと期待し、海岸でじっと待った。

石垣島の夕日1907ishigakijima11.jpg

日没から20分後、上空の巻雲は赤く染まり始めた。同時に水平線に沈んだ太陽からの光の筋が積乱雲の合間を透過し反薄明光線、八重山では天割れと呼ぶ現象を上空に描いた。

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夜、島の沖合では雷雲が音もなく発光を繰り返す。


[2019年竹富島編]

赤瓦の屋根が並ぶ古き良き沖縄を彷彿とさせる光景から、離島といった印象をもたれる事の多い竹富島だが、実は石垣島からは驚くほど近距離にある。
上空から撮った写真。手前に広がる市街地が石垣島、わずかの距離に浮かぶ平坦な丸い島が竹富島。そしてひっきりなしに行き来する船の航跡も見える。

竹富島空撮1907ishigakijima08.jpg

そんな船のひとつに乗り込み離島桟橋から船でわずか15分、平坦な島に到着。こちらも7年ぶり。

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竹富島コンドイビーチ1907taketomijima11.jpg


竹富島でも海で泳いでいるうちに長かった夏の日は傾き始めた。
時間が許せば島は宿泊がおすすめ。昼間は混雑する集落も最終便が去った夕方になると人の気はほとんど消し去られてしまう。木々の合間から西日が射し込む路地。物音は砂を踏む足音だけ。

竹富島の風景写真1907taketomijima04.jpg
竹富島の風景写真1907taketomijima05.jpg
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竹富島の風景写真1907taketomijima06.jpg
竹富島の風景写真1907taketomijima10.jpg
竹富島西桟橋の夕日1907taketomijima12.jpg
竹富島西桟橋の夕日1907taketomijima09.jpg


石垣空港〜那覇空港間の航路は琉球弧に沿って設定されているため眼下には東シナ海に弧を描き規則的に列ぶ島々が島が順に手に取るように見える。

石垣島からの帰路、那覇空港の滑走路混雑のため当該機の着陸許可が下りず、飛行機は慶良間諸島上空で時間稼ぎの旋回を繰り返すことになった。

渡名喜島空撮1907ishigakijima07.jpg

4年前に訪れた座間味島、阿嘉島、安室島が手に取るように見える。
その中で島名がわからない島がひとつ、少し外れた東シナ海に浮かぶ小さな島。島好きとしては悔しい限りなので調べると渡名喜島というそうだ。
飛行機はこの島の上空を二度も低空で旋回したため窓に張り付き上空からじっくりと俯瞰調査。サイズ感、集落の雰囲気、海の美しさ、三拍子がそろった自分好みの島。増え続ける予定地マップにメモしておこう。

[了]

●2019年5月某日/島、廃校、廃鉱、2019GW中国山地徘徊記

  • 2019/06/25 22:59
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2019年ゴールデンウィーク。昨年のGWは瀬戸内海の怪しい島を徘徊、
今年は中国山地の奥地に秘められた廃鉱山を目指した。
目的地は遥かに遠く、瀬戸内海や中国山地にある廃校やキャンプ場に宿泊しながらの道中となった。
全行程で好天にも恵まれ前半は海、後半は山を満喫した徘徊記録。
まずは岡山県沖の瀬戸内海に浮かぶ小さな島、犬島編。


photo:Canon eos7d 15-85mm


岡山県沖の瀬戸内海に浮かぶ小さな島、犬島。
島にある廃校に泊まるために犬島への航路となる岡山県の宝伝港に到着した。
時刻は早朝、人の気配のない無人の船着き場にリュックを置き港を徘徊。しばらく猫と戯れ宝伝8時発の便を乗るため桟橋へ戻るとぽつんと置かれた自分のリュックを先頭に犬島へ向かう人々の長蛇の列ができていた。しまった。この時期の犬島、瀬戸内海の島々を舞台に開催されるアート展、瀬戸内芸術祭とかぶっていた。

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それにしてもすごい人だ。あふれんばかりの来島者。一方犬島への渡し船は定員80名の小型船。列を作る乗客の大半は乗り切る事はできなさそうだ。
渡し船は満席になると同時に岸壁に多くの乗客を残したまま定刻より早く宝伝港を離岸した。どうやら積み残された乗客のため臨時便を増発し、ピストン輸送を繰り返しているようだ。

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緑に覆われた本土の山がみるみる遠ざかる。後部甲板で潮風に吹かれる事わずか10分たらずで犬島桟橋に到着、大勢の来島者と共に2年ぶり5回目の犬島上陸を果たした。



人口わずか50人ほど、かつてはまったく無名だった岡山市犬島。しかし現在の犬島は10年ほど前にできた美術館、さらに芸術祭の舞台となったことで人で溢れる人気の島となっった。船から吐き出された人々は一斉に港脇に建つ美術館チケットセンターへ向かう。桟橋からは入場券を買い求める人々の長蛇の列が見えた。

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本日は2019年5月某日、ゴールデンウィーク。
自分が初めて犬島を訪れたのは今から21年も前、1998年5月、奇しくも同じGWのことだった。当時の犬島は現在の騒然とする様子が想像もできない静まり返った島だった。

それにしても美術館も観光地もまだなかった犬島をなぜ訪れようと思ったのか。来島の目的は島に残ると言われていた廃墟となった精錬工場跡。当時、現在のように検索すればなんでも出てくる便利なネット環境もなく本当に廃墟は存在しているのか、と半信半疑で岡山駅から路線バスで宝伝港へ向かった。宝伝港に到着、バスから降りた自分の目に飛び込んだのは沖合ある平坦な島に立つ数本の煙突だった。ちなみに宝伝港から乗船した船の乗客数はゼロだったと記憶している。

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森に沈んだ煙突、茂みをかき分け到達した発電所跡。初訪問時ここは本物の「廃墟」だった。訪れるよそ者といえば釣り人か物好きな廃墟マニアくらいしかいなかった犬島に美術館計画が浮上したのがその数年後、前章なのか2003年頃から廃墟を利用した演劇のようなものが行われていたと記憶している。精錬所廃墟に建てられた「犬島精錬所美術館」は2008年に完成、同時に古びた集落の合間にもアートなる作品が多数設置されたことで静まりかえっていた島は大きく変貌した。



初訪問時に撮った犬島製錬所跡の写真。当時使用に耐えうるデジタルカメラはまだなくフィルム一眼レフとリバーサルフィルムで撮ったもの。見つけたポジフィルムから何枚かをスキャンした。画像に縦線が入ったり、写真の質が悪いのは安物のボロスキャナーと自分の腕のせい。

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島東端の森や台地上に大正期のわずかな期間、製錬所として使用されていた煉瓦づくりの煙突や発電所などの遺構が点在していた。
赤茶けた高台から周囲を見渡すと東には海を挟んで沖鼓島と呼ばれる無人島。西には採石でできた池。そして台地を囲むように島のランドマークでもある計5本の煉瓦煙突が立ち並ぶ。森の中には地下室も存在する煉瓦造りの発電所跡もあったが現在は順路で隔離され近づくことはできない。

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鉱石から高純度の金属を取り出す過程で必要となる製錬作業。そのため製錬所は鉱山とセットになっているものが多い。とはいえ犬島に鉱山があったわけではなく、本土にあった鉱山製錬所の公害対策として犬島に移転されたもの。本土が駄目なら島で、というのもどうかと思うが、最盛期には会社の従業員はもちろん、家族まで呼び寄せ数千人単位で工場周辺に住まわせていたと言うから実際のところ会社としてもそれほど深刻に考えていなかったのだろう。
同じ意図で工場が作られた四阪島や契島という島が瀬戸内海にある。これらの島、昔からどうしても上陸したく15年程前、各所に問い合わせをしたことがあるが駄目だった。
初めて犬島を訪れた際には製錬時に排出された亜硫酸ガスの影響なのか工場跡地は枯れ果てた荒野のようになっていた。しかし最近撮った写真と比較すると20年の時を経て灌木を中心とした植物が製錬所跡に繁殖、自然の強い力を感じた。



廃墟が人で溢れる観光地になったのは寂しいが放置状態が続けばそびえる煙突群はいずれ崩落していたかもしれない。倒壊寸前だった大煙突を補強し、廃墟の雰囲気をある程度残しつつ、美術館を開設した技術や資金には感服する。
再び現在の犬島。

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芝生が敷き詰められ犬島石が並べられた犬島港周辺。現在はこぎれいに整備された美術館へのアプローチも当時は廃屋と廃車が点在、砂塵にまみれた荒涼とした砂地だった。



さて今回の目的は島に安く宿泊することなので、食料を詰め込んだ重いリュックを背負い犬島対岸にある宿泊施設へと向かった。島にはかつて犬島小学校、中学校があった。最盛期には6,000人にも達した人口もその後の製錬所閉鎖、さらには慢性的な島人口の低下によって生徒数も減り続け1991年、ついに廃校となった。廃校時、生徒数はわずか2名だったという。現在は宿泊施設へと改装されその安さ故何度も利用した宿。敷地の南側には新緑に包まれる木造校舎も残されている。

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廃校に重い荷物を置くと身軽になった身体で島を徘徊。廃校から反時計回りに島の一周を始めた。かつて多くの離島を巡ったことがあったが犬島は島感を感じるにはぴったりのサイズ。徒歩30分ほどでだいたいの主要な場所は回りきることができる。これが沖合に浮かぶ小豆島クラスになると何かしらの交通手段をもたないと移動も困難だ。同時に離島というほどでもなく本土から船でわずか10分たらずという近さが同時に安心感を与えてくれる。

犬島には沿岸部に2つほどの集落がある。黒壁の伝統的民家が密集する集落を歩くと2年間の変化に驚かされた。犬島の魅力、それは古びた民家と共存する人が去った廃屋だった。しかしそれらの廃屋が目に見えて減っているのだ。更地が増えた集落は歯の抜けたような状態となっている。いずれも倒壊の危険を考えここ1、2年の間に解体されたのだろう。




日中は人で溢れんばかりだった犬島。多くの来島者が最終便で本土へ帰ったため夕方の訪れとともに騒がしかった島は再び静けさに包まれた。

瀬戸内海に日が沈む。持ち込んだ食材で自炊となる夕食の支度が完了すると特にやることもなくなり宿泊する廃校前の岸壁に腰掛け暮れゆく海を眺め続ける。静まりかえった岸壁に響くのは弱々しい波の音だけ。
5月だとは思えないほど暑さに包まれたGW、日が傾きようやく過ごしやすくなった。

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海峡を行き来する客船が遥か遠方を音もなく通過し、目の前にある犬ノ島がシルエットとなっていく。
これが本土の宿ならば逆にこの時間を利用し車で夕日を見に出かけてみようだとか、食材を追加で買い出そうなど欲を出してバタバタと動いてしまうものだが、最終便が去った今、狭い島内に足止めされたことで、「なにもしなくても良い時間」というものが強制的に生まれる島巡りが好きだ。

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1925年の大正期の精錬所閉鎖後、長年に渡り忘れられていた島、犬島。
初上陸から21年。その数年後廃墟を使った劇団の公演から始まり、美術館の建設、芸術祭の舞台と島民にとっても激動の21年だったのではないか。騒がしくなってしまったとはいえ個人的にちょうどいいサイズの島はやはり好きだ。



夜の犬島を徘徊。水銀灯に照らし出される集落路地。廃校で読んだ資料によれば精錬工場が稼働していた大正時代の最盛期、犬島には多数の飲食店はもちろん「共楽館」と呼ばれる巨大劇場までもが建設され、深夜まで響く声、煌々と輝く電灯にまるで不夜城のようだったという。

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しかし今や過疎化によってその多くが空き家というこの島、ほとんどの民家は闇に沈みカーテンの隙間から漏れる電灯の明かりに人の気配を感じる家はわずか。静まりかえった路地に響く自分の足音がひっそりとした平穏な夜を乱してしまうのではないかと気を遣いつい足音を忍ばせてしまう。
空には満天の星。明日こそは廃鉱山を目指し西へと向かう。

[続く]

●2018年10月某日/秋の佐渡島、車中泊四日間/3日目

  • 2019/04/09 23:05
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佐渡島車中泊三日目。
深夜の大野亀を起点に西海岸を彷徨い辿り着いた入崎と呼ばれる岬。
車中泊していたこの岬脇のキャンプ場で夜が明けた。
昨夜、空を照らし出した怪しい光も夜明けとともに消えさり
幻想的だった海辺は平凡な光景へと戻っていた。


前回の記事

photo:Canon eos7d 15-85mm


漆黒の佐渡島西海岸を徘徊中、夜空を射す怪しい光に導かれるように到着したのが、海沿いにある入崎キャンプ場だった。灯台から一直線に海面を照射するサーチライト、岩礁沖の海上で発光する眩い照明。様々な光に包まれながらキャンプ場で車中泊。
翌朝、車内でのそのそと起き上がり、あたりの様子をうかがうとキャンプ場は朝の光に包まれていた。昨夜見た風景が嘘のような平凡な光景。

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車中泊を行った海辺の集落には小さな石碑がある。この海岸、意外な小事件が起こった現場でもあるのだ。



時代は1946年まで遡る。わずか半年ほど前に太平洋戦争は終結、佐渡の寒村においても出征した兵士の復員がぼつぼつ始まりかけていた真冬のことだった。村上空に爆音が響くと見慣れぬ輸送機が雲間から現れ、現在自分の立つ海岸に土ぼこりをあげ不時着した。

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悪天候によって不時着した機は半年前まで連合国の一員として日本と戦っていた英軍のダグラスDC-3、通称ダコタ。滑走路もないため再び飛び立つこともできず英兵達はその後、数ヶ月に亘りこの寒村に滞在。村人は思いも寄らぬ来訪者に驚き戸惑いながらも、共に整備、簡易滑走路の建設を行った。

この不時着事件、 Wikipediaにはその後の映画化の記載しかなく当然ながら表面的なことしか書かれていない。しかし佐渡最終日、小木港観光案所にダコタ不時着事件を扱った本が置かれており、現在も残命である集落住民達の証言で構成された内容が非常に興味深くフェリー待ちの間、1時間近く読みふけってしまった。

初めて見る外国人との交流、村総出の滑走路作り。90日後、ついに修理と滑走路建設が完了し彼らが村を去る日が来た。英兵と村人の手作りのセレモニーの後、固唾をのんで見守ったダコタ機は海岸に石を敷き詰めた簡易滑走路からぎりぎりで無事離陸。ダコタ機は村人へのお礼の意味も込めて翼を振りながら集落上空を低空で何度も旋回、やがて南へと飛び去っていった。地上からは機体の窓に張り付き手を振り続ける乗員の姿が良く見えたという。それから数十年後、当時の英軍関係者の子孫がお礼に佐渡を訪れた事で陽の目を見たという。
ちなみにストリートビューによれば佐渡南部に再現されたダコタ機の機体が置かれていた。今回の佐渡島徘徊の際、見学しようと考えたものの現在は撤去されたようだ。


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〈追記:2019年/3月〉
佐渡から消えた撮影用ダコタ機だったが帰宅後、調べてみると意外な場所にあることが判明。しばらくして訪れる事ができた(上記写真)。銀色の機体は想像以上に大きかった。こんな重量物が佐渡の海岸に石を敷き詰めただけの簡易滑走路からよく離陸できたものだ。



話がそれたが佐渡徘徊開始。まず向かったのは空撮写真とでチェックしておいた放棄されたとおぼしき山中の採石場跡。山道を彷徨い現地付近に到着、残念ながら手前で道が封鎖され空振りに終わった。車中泊をしていた入崎へと再び戻り車を停め今後を思案、時計回りに佐渡島外周路を回る事にした。

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島巡りが好きだ。その中でも好きなのが人口100人弱、歩いて30分ほどで一周できる小サイズの島。このクラスの島では車もほとんど存在せず猫にまみれながらのんびりと歩く事ができる。
一方佐渡島は面積854km²、島とはいえあまりにも大きい。ここまでくると島感もうすれ、運転中は能登半島や丹後半島に代表される本州のひなびた海岸線を走っている感覚だ。また島の中心部にはコンビニはもちろん、全国チェーン店の飲食店が並び一見本土の地方都市を見間違うほど。例のフィルターの件では全国チェーン店のカメラ屋に助けられた。

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昨日に引き続き佐渡の廃校を巡る。
ここ二日ほど西海岸から北部を探索していたため本日は佐渡平野を挟んだ南側、佐渡島南部に絞った。離島だけあって廃校も非常に多く候補地は無数にあるが、先述したよう面積が広いため時間も限られ結果5件しか訪問できず。うち木造校舎の廃校だけをピックアップして紹介。



明治期、学校を建設するにあたり広大な用地が必要となることから学校は集落外れに立地する事が多い。しかしここは意外にも密集した狭い集落の中心に収まっていたため建物を見つけ出すのに多少苦労した。

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しかし周囲の光景で納得、海と山が迫る集落の土地故に学校創設期に他に適当な建設場所がなかったのだろう。敷地は非常に狭く、当然校庭のようなものもない。現在集落には海を埋め立て作られた広大な漁協スペースがあるのでここに車を停め徒歩で集落路地を歩き到着。廃校後、現在は転用されてるようで声をかけ中を見せてもらう事ができた。



続いての廃校は、よくある転用例のひとつ、閉校後は民族資料館として使われているもの。場所は佐渡の南、北前船の寄港地として有名な観光地、宿根木集落の外れにある。集落から少し離れた高台に廃校と千石船の復元展示館がセットとなっている。

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木造平屋の廃校内。かつての教室は現在は資料が無造作に並ぶ展示室として使われていたため、学校らしき面影を残すのはわずか一部屋。当時子どもたちが使用していた椅子を見比べても今回佐渡で見た廃校の中では最も古い時代のものであることがわかる。
廃校としての雰囲気を楽しむにいまいちだったが、隣接する千石船の復元展示が思いのほか良くこちらに長居してしまった。

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時代を遡ると、日本人はかつて遠洋航海の名手でもあった。大海を渡りはるか遠く東南アジアを行き来していた朱印船貿易は鎖国政策によって衰退、遠洋航海術と造船技術は失われてしまい、山を見ながら航海する沿岸航法によって物資は江戸へと運搬された。作家吉村昭の漂流ものに必ず登場するのがこの千石船だった。嵐に遭い転覆を免れるべく帆柱を倒してしまえば自力で本土へ戻る見込みもなく海流に運ばれ漂流するのみだった。

ここでは復元された千石船に乗り込む事もでき、小説内で登場する船主部屋、狭い天井など船乗りの暮らしを実感する事ができた。それにしても500トン級の大型船フェリーあかねでも船酔いしかけた自分がこの木造船で荒れる日本海に放り出されたら一体どのような惨状になるのだろうか。




日本海沿岸の魅力は海辺に点在する古びた木造小屋だ。番屋なのか、倉庫なのか、用途はわからないが長年海風に吹かれくすんだ色合いとなった外壁が日本海の厳しい風景によく似合う。
ここ佐渡島においても海際、断崖、湖畔、至る所に現れる小屋に思わず車を停めることが多かった。

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集落の片隅、断崖の果て、様々な場所にぽつんと立つ木造小屋。廃屋のようなものも多いが現在も使われているのんだろうか。



山間部を移動中、晴れていた空がにわかに掻き曇ったかと思うと土砂降りの雨に見舞われた。海上に突き出た島は気流の影響も受けやすく晴れわたる大海原で孤島の頭上だけ雲に覆われている光景はよく見るもの。
ここ佐渡島も日本海上に1,000m級の山が突き出ているため、沿岸部とは対照的に山間部は雲に覆われていることが多かった。雨を降らせたのはそんな雲のひとつ。

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平野に復帰すると雲が切れ晴れ間が戻る。振り返ると豪雨をもたらした雲が日を浴びて白く輝いているのが見えた。



佐渡島最終日。昨年秋に行った北海道徘徊に続き今回の佐渡島も1日目は大野亀の夕日、2日目大間港の夕日と印象的な夕景に出会う事ができた。3日目、佐渡での最後となる夕景はどの場所で迎えるべきか。

近隣に良い夕日スポットがないかとツーリングマップルを開き探したところ長手岬と言う場所がわずかな距離にあることがわかった。20分ほど車を走らせ現地に到着。岬は西向きのため日本海へ落ちる夕日を眺めるのには適した場所。しかし空が晴れ渡りすぎている。案の定一辺の雲もない快晴だったためドラマチックな雰囲気もなく平凡な夕日が水平線へ沈んで行った。

がっかりしながら今夜の車中泊ポイントに向け移動。真野湾に面する佐和田地区は全国チェーンのコンビニや飲食店が集中、ちょっとした郊外型繁華街の様相を呈しているため今回の島徘徊でも何度か利用した町。その海辺で車中泊に適していそうな広大な駐車場をあらかじめ見つけておいたのだ。佐渡島南端に近いため、明日昼前に小木港から出航するフェリー乗り場にも行きやすい。

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既に夕日は沈み、薄暮の街中を走り目的の海岸駐車場へと到着した。予想通り、広大な敷地。市街地からも少し外れているため夜間は静かに眠る事ができそうだ。駐車場から暮れ行く空を見上げると日没後30分あまり後に現れる紫色の空が広がっていた。

海辺へと向かう。真野湾を挟み遥か先には夕日を眺めていた長手岬へと続く山のシルエットが見える。先ほどまで吹いていた強い風も日没と同時にぴたりとやみ凪状態となった真野湾。波もない海面は紫色の空と月光を写し続けていた。


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佐渡島徘徊最終日の夕景は真野湾での印象的な光景で終わった。



佐渡島四日目、車中泊をしていた海岸駐車場で夜が明けた。この三泊の車中泊で最も冷え込んだ朝。車の窓は結露で真っ白となっていた。佐渡は冬も近い。

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シュラフから抜け出し冷気に包まれる早朝の浜辺と歩くと昨夜気がつくことはなかった海へと伸びる桟橋があった。夜明け前、コントラストのない薄暮のような不思議な時間帯。桟橋の先端まで歩き振り返ると山の稜線上が赤らみ太陽が昇り始めた。

そろそろ帰るか。帰路のフェリーが出港する小木港へと車を発進させた。

[了]

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