●2013年12月某日/紀伊半島廃校縦断記.01
- 2014/01/30 22:36
- Category: 廃校

紀伊半島。南北200km、東西180km、面積9,900km²。
もはや「半島」と呼ぶのを躊躇してしまうほどの広大な土地に深い山々が続いている。
多数の霊場や急峻な山岳地帯が広がるこの紀伊半島を、かつて敬意を込め日本のチベットと呼び
いわゆる酷道を中心に探索を繰り返していたものの、ここ10年ほど足が遠ざかっていた。
年の瀬も押し迫った凍えそうな日、そんな紀伊山中に点在する廃校めざし半島縦断を行った。
幸いなことにいくつかの廃校において周辺に住む住民の方のご好意で
建物内部を見学させてもらえることができ実りのある探索となった。
photo:Canon eos7d 15-85mm
※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。


長い冬の夜が明けた。空が白み始めるにつれ路肩がぼんやりと白く浮かび上がる。雪だ。
紀勢自動車道の高架から見下ろす夜が明けたばかりの里山は真っ白な雪で覆われている。
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紀勢自動車道は現在も南へと建設が続いている。手元の地図では大宮大台ICで途切れていた紀勢道だがインターをすぎてもまだ続く。道路に身を任せ走り続けるとトンネルを抜けた先で工事中を示すコーンとともに終わりを告げた。ここはいったいどこなのだろうとインターを降りてみると紀伊長島という港町、いつの間にかこんな南まで高速道路が開通していたとは。しかも無料区間。非常に得した気分。
早朝6時45分。昇り始めた朝日に照らされ雪で白く染まった周囲の山々が輝いている。

紀伊長島インターから紀伊半島の海辺を沿って走る国道42号線に合流すべく走っていると集落が煙のようなもやに包まれているのが見えた。近づくとその正体は熊野灘に流れ込む赤羽川から立ち上る川霧だった。

外気よりも暖かい川の水温が水蒸気を発生させる珍しい光景に写真でも撮ろうかと路肩に車を停めドアを開けると冷気が一気に車内へ流れ込んだ。間違いなく氷点下。凍えながらシャッターを押す。

国道を外れ小さな漁村が点在する海沿いの旧道を進んでいく。
年の瀬も迫ったこの時期、道ばたの神社ではいずれも正月を迎える準備が大詰めを迎えている。そんな神社のひとつに車を停めた。海際ぎりぎりに建つ神社、尾鷲の飛鳥神社(あすかじんじゃ)。

海面を覆い尽くすほどに茂る楠や杉の巨木が作り出す鎮守の森が魅力だ。冬とは思えぬ色彩が印象的な海と葉のコントラスト。昇ったばかりの太陽が作り出す逆光が葉の色彩をより鮮やかに演出している。鳥居には大きな日章旗が掲げられここでもあわただしく正月準備が進む。
神社の裏手には木造校舎まであった。廃校ではなく現役の幼稚園なのだそうだ。

三重県尾鷲市郊外にある小さな漁村。
長い直線トンネルを抜けた瞬間、唐突に現れる狭い道へ右折、急坂を下っていくと山々に囲まれた小さな湾が現れる。わずかな平地には漁協の建物と駐車場、一方居住地帯は狭い土地を有効活用するためか見上げるような急斜面に張り付いている。その集落最上段には廃校となった木造校舎が残されている。


この廃校の魅力はそのアプローチ。わずかの平地も惜しむように密集した民家の間を縫うように登る古びた一本の急階段。早朝の時間帯、西向きの斜面に位置する集落には日差しは一切差し込むことなく路地は冷気に包まれていた。白い息を吐きながら長い階段を一段一段上っていく。
密集する家々をつなぐ配管が階段に沿って剥き出しとなっている。かつて訪れた軍艦島地獄段を思い出すような無骨な光景。振り向くとかなりの高さまで登ってきた。冷え込む路地とは対照的に、日差しに照らされ暖かそうな西側集落やふもとの漁協がよく見える。

最後の民家を抜け現れた学校への石段を息を切らせながら登り古びた校門をくぐる。すると思いの外、広大な校庭が広がっていた。霜が降りた校庭からは冷気が立ち上っているのを感じる。
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夜明け前の白い校庭には意外なことに真新しい足跡、その奥には人影があった。話しかけてみると集落に住むお年寄りだった。朝の体操中だという。確かに平地が貴重な集落において校庭は庭代わりなのかもしれない。
この方の話によれば学校は廃校ではなく「休校中」なのだという。廃校と休校の定義がよくわからないので後日調べてみると、なるほどあえて廃校にせず休校にしておく理由が判明し勉強になった。
高台には校舎らしき建物が見える。校舎内部を見ても良いかと尋ねると、防獣ネットを開けて中に入りなさいとのこと。校舎は東にそびえる裏山の影響を受け非常に薄暗い。今の季節は昼近くまで日が射し込むこともないのだろう。逆に夕方は西日をたっぷりと浴びることになる立地。


周囲をぐるりと防獣ネットに覆われた薄暗い室内。三脚を車に置き忘れ、朝とは思えぬ暗さ故まともな写真はほとんどなし。三脚を取りに車まで戻る事も考えたものの、あの急坂を再度往復するのもどうも気が進まない。
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室内は四つほどの教室に職員室、図書室が並ぶ定番の間取り。廊下の朽ち具合は深刻で校舎奥に至っては完全に崩落し通行不能。仮に学校が再開することがあったとしてもとても使用できる状態ではないだろう。帰宅後検索をかけてみるとどのサイトでもここは「廃校」扱いとなっており、先ほど住人から聞いた休校というのは勘違いなのかもしれない。



表札には職員室とあったが正確には保健室、骨組みだけになったベッドが置かれている。隣接する図書室には子どもの頃好んで読んだ懐かしい本が多数残されていた。闇に包まれていた室内も30分ほど見学しているうちにわずかながら明るさを増して行く。
校庭へと戻り先ほどの方と言葉を交わしているうちに漁が終わったのか、漁船が次々に寄港、港へ集まる人々の様子が手に取るように見える。時刻は午前7時過ぎ。漁村の朝は今からはじまるのだろう。
廃校を後にし路地を下る帰路、別の住民からも声をかけられた。ここまで気温が下がるのはとても珍しいとのこと、あたらせてもらったたき火で冷え切った体も復活。廃校も良いが集落マニアとしてはいつかじっくり探索したくなる雰囲気の良い漁村だった。
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紀伊半島徘徊は始まったばかり。漁村を離れ再び海岸線に沿って南下再開。複雑な海岸線をひたすらトレースする道が続いていた紀伊半島東海岸。しかし近年、長大トンネルの開通が相次ぎ時間を稼ぐことができるようになった。トンネルは遮る山をものともせず一気に突き抜け漁村同士を直線で結ぶ。

時折紀伊半島を一周する鉄道、紀勢本線が顔を出す。現在も伸び続ける道路網に比べ減少していくばかりの鉄道網だが、かつては線路が日本列島津々浦々を網羅していた時代もあった。
1872年(明治5年)の鉄道開通からわずか20年たらずで全国をほぼ網羅したというから鉄道の発展速度は驚く限り。
ところが紀勢本線に限っては東西から進められてきた路線が全線開通したのはなんと1959年(昭和34年)。進捗を遅らせたのは紀伊半島の広大さもさることながら、現在通過中の熊野市から尾鷲市にかけて続く複雑なリアス式海岸であった。海際に切り立った断崖が続くこの一体では曽根トンネルをはじめ難工事が相次いだ。
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鉄道が苦しめられた熊野市尾鷲市間には現在、山々を穿つ道路トンネルが続々と開通している。山を貫通し一気に繋ぐトンネルの力を言葉ではうまく表現できないため図に描いてみた。破線がトンネル部分、赤丸が現在地。ちょうど紀勢本線、最大の難工事区間となった三木里~新鹿のあたり。

それにしても山塊を貫くトンネル(破線部分)の多さは何度眺めても圧巻だ。紀勢本線に至ってはそのほとんどがトンネル。まるで地下鉄である。
海沿いの道路(国道311号線)、左側の道路(国道4号線)の順に建設されていったように、技術の発達とともに長大トンネルの掘削が可能になっていたことがわかる。そして2013年秋、中央の熊野尾鷲自動車道の三木里-熊野大泊間開通によって難区間は一気に駆け抜けることができるようになった。
ちなみに熊野尾鷲自動車道、2013年12月現在のgoogle Mapには掲載されいなかったもののYahooMAPの方が更新が早いのかしっかり掲載されておりうまく利用することができた。
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現在走行中の国道311号は漁村と漁村をつなぎひたすら海岸をトレースしていく。
時折幅員が広がると立派なトンネルが現れこのまま一気にワープ、と思いきや前触れもなく狭路に変化、とにかく侮れない。


そんな311号も時折視界が開け雄大な景色を眼下に望むことができる箇所もある。
途中で見かけた海。枯れ果てた茶色の光景が続く冬の光景に見慣なれぬ鮮やかさが目を引き思わず車を停める。
海の脇には小さな鳥居が見える。森から薄い煙が立ち昇っているところを見ると正月を迎える準備中なのだろう。山道を降り神社を訪れてみたいところだが徒歩で往復するにはさすがに遠く、この後の紀伊半島横断を考えると時間も惜しく今回は諦めた。
よく見ると作業をしている人たちは対岸の集落から漁船で行き来している。確かに航路の方が便利に違いない。道路が整備される以前はおそらく漁村同士の行き来も舟で行われていたのだろう。
残念ながらスルーしてしまった神社、夏までには再訪するべく予定リストに入れておこう、と地図に印を付けておく。帰宅後神社の名前が判明し半年後ついに訪問することが出来た。
透明度の高い海際に建つ趣のある神社だった→LINK


南へと進んでいくと狭い湾が広がり始めた。尾鷲から続いたリアス式海岸もあとわずか。
今までとは印象の違う開放的な海岸に時間もないというのにまたも車を停め砂浜へ降りてしまう。地図によればこの海岸は新鹿海岸という場所のようだ。黒色の砂利が印象的な熊野灘だが少し外れるとこんな白砂の海岸もあることに少し驚かされた。



11:30
ついに熊野市まで南下してきた。しつこく続いていたリアス海岸もようやく終了、ここからは一転玉砂利の浜が20数キロに渡って続く変化のない海岸線となる。熊野灘に沿って南下していった和歌山県、那智の山中で次の廃校と出会うことになる。
[続く]
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