●2018年3月某日/秘境集落、立里集落、廃校立里小学校再訪記。
- 2018/04/29 22:40
- Category: 廃校

紀伊半島。奈良、和歌山、三重3県が作り出す広大な土地のほとんどは山岳地帯である。
四国祖谷、宮崎椎葉村と並び秘境集落、山岳集落の宝庫と言われる紀伊半島の中でも
最も下界と隔絶されているのではないかと思われるのが
奈良県野迫川村山中にある立里集落だ。
紀伊山地の最深部、抜け道のないどん詰まりの林道を
ひたすら走り続けた終点にある十棟ほどの民家と廃校。

立里集落の場所を示す。地図上ではわずかの距離を県道が通るが、不思議な事に直通路はなく
立里を訪れるには標高1200mの山を越える大迂回を強いられることになる。
この集落の存在を知ったのは遡る事20年近く前、師匠ともいえる人物からの情報だった。
道路地図を広げ見つけた訪問者を拒むかのような隔絶された立地に魅力を感じ
それから10年余り過ぎた2007年夏、苦労の末、実際に現地を訪れる事ができた。
残念ながら当日は土砂降りの雨に見舞われてしまったためその後も挑戦を続けたものの、
そのアクセスのあまりの悪さ故、何度も敗退する羽目となった。
最近では2017年末に積雪によって断念させられた秘境集落、春の訪れを待ち再挑戦を行った。
photo:Canon eos7d 15-85mm
※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。

2007年夏の立里訪問記
2018年春。紀伊半島は二ヶ月前の極寒の日が嘘のような陽気に包まれていた。
紀伊半島最深部に存在する立里集落目指し、まずは林道の起点がある野迫川村中心部へ。核心部はまだ10数キロも先だというのに道は既に「険道」の様相を呈している。曲がりくねった狭隘な山道をひたすら登り続け稜線へ登りきると視界が開け広大な紀伊山地の風景が広がった。このあたりが野迫川村中心部となる。見渡す限りの山。その一画に目的地の立里はある。


目を凝らすと山の一角には隔絶された民家が見える。目的地のものではないが、秘境集落の宝庫でもある紀伊半島ではこのように小規模な集落が広範囲に点在している。
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奈良県野迫川村。奈良県といったキーワードから人々がイメージするものは大仏に代表される寺社仏閣や古墳ではなかろうか。しかし2/3以上を森林が占めるという奈良県の実態はあまり知られていない。野迫川はその南端にある山村。人口わずか400人。広大な面積を持ちながらそのほぼ全てが山林で覆われ可住可能面積はわずか2%。
立里集落は野迫川村中心部から南東へ突き出た荒神岳山系が形成する尾根の南端に位置する。
稜線を走る県道から分岐する集落への唯一のアクセス路、林道上垣内立里線へと入った。立里へは山越の必要があるためしばらくの間、急な登り道が続く。その途中には立里荒神社、さらに進んだ場所にあった宿は閉鎖され廃墟と化していた。

廃ホテル周辺は行程の中で最も高地にあたり、地形図によれば標高は1200mを越えている。春だとはいえ道路脇では涌き水が凍り付き日影には雪が残されている。冬期通行困難な奥地において集落ではどのように生活が営まれているのだろうか。
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ここから先は立里集落に用がある人間しか立ち入らない道。脇の看板にも立里と共にこの先行き止りと書かれている。
薄暗い杉木立の森に続く古びた林道を走り続け尾根先端へと到着、ここから立里までは標高差400mを一気に下る。道は上り詰めた山を容赦なく下り続ける。前回はこのあたりで土砂降りの雨に見舞われスリップの恐怖に覚えながら水が溢れる急坂を下り続けた記憶がある。
曲がりくねった林道を下り続け、集落まで残り数百メートル。到着直前、崩落したガレ場を通過、視界が開けた。集落からの眺望が得られない事はかつて訪れた際の経験から既に知っているのでここで一旦車を停め地形を観察した。

広がるのは東方面の紀伊山地。見渡す限りの山々、蛇行する川が削り取った急峻な谷。遥か彼方で冠雪している山は大台ケ原だろうか。眼下の谷底には見覚えのある錆びたトラス橋が見える。その名は池津川橋。遠目にはわからないが実態は朽ち果て通行止め。橋を渡り、南へと続く林道川原桶川線は崩落のため通行不能、復旧が行われている気配もなく廃道と化している。

写真に写る県道734号は立里から最も近距離にある「まともな」道である。と言っても林道とさほど大差がない山道ではあるが、それでもここに出さえすれば1200mの山越えも大迂回の必要もなく、しばらく走れば紀伊半島を南北に縦断する主要道、国道168号線へ出る事も可能。

再び地図。このように立里と県道734号、両者の距離は地図上ではわずかに見える。自分も20年近く前、初めて立里集落の存在を知った際、道路地図を広げながら県道からのアクセス路が存在しないことを不思議に感じ、隔絶された謎の集落には隠された秘密があるに違いない!と無邪気に思ったものだ。
しかし実際の地形を目で見るとその理由がよくわかる。集落と県道の標高差は400mあまり。距離がないという事は急傾斜の現れだ。さらには池津川によって分断され両者の間には絶望的な距離があるのだ。
対岸の山中には中津川という廃村が森に埋もれている。さらに奥には豪雨によって山体崩壊を起こした山の傷跡が見えた。土砂は県道734号線を飲み込み復旧したのは最近のこと。
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再び森に入った。300mあまり進んだろうか、森が切れるとぽっかりと空間が広がり周囲は明るさに包まれた。昼過ぎ、ようやくのことで立里集落に到着。前回の訪問から11年、現在も住人はいるのだろうか。

ちなみに立里は上記看板に書かれているように「たてり」と読む。この集落を初めて知った際は自分は道路地図にフリガナが併記されていなかったため「たてざと」だとしばらくの間思い続けていた。
集落奥の空き地に車を停め、エンジンを切ると静けさに包まれた。同じ空き地の片隅には軽トラックが置かれている。車体はわりと新しく、廃車には見えないことからここは廃村ではなく現在も住人がいるに違いない。

立里中心部。森を切り開いた斜面に15棟ほどの古びた平屋が点在している。メインストリートでもある車道沿いの民家は住人が離村してから久しいのか、屋根には穴が空き壁面も崩れ朽ち果てていた。他にも廃屋とおぼしき民家が点在する集落内で生活改善センターと書かれた公民館のような建物だけが唯一新しく見える。



集落の外れにある古びた建物が。これが廃校となった立里小学校の木造校舎。
車によって往来可能になった現在においても到着には相当の苦労を要する人里離れた集落においても、学校が作られ教育が行われていた。
このタイプの校舎は紀伊半島の秘境集落でよく目にするもの。閉校から30年あまり、窓ガラスの多くが破れ、側面入口は崩落、しばらく見ないうちに随分と崩壊が進み休校とは言うものの廃校に近い状態となっている。
正面玄関脇には立里小学校と書かれていたらしい木の表札があったが劣化し文面を読み取る事はできなかった。


窓ガラスがないため中の様子が外からも手に取るようにわかる。窓の隙間や開口部から内部を撮ってみた。廊下を挟んで教室や職員室が並ぶ典型的な間取り。クラスは学年ごとではなく低学年と高学年に分けられ授業が行われていたようだ。また別の教室にはピアノが残されている様子も窓枠越しに見えた。
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教室内の黒板に書かれた当時、あるいは閉校後に書かれたと思われるメッセージも外から読み取る事ができる。その中に卒業生が書いたと思われる非常に印象に残る文章が書かれており、一部抜粋。

「小さい頃の思い出が何十年たった今も、この校舎に入ればこの間のように思い出される。桜の木に登って鬼ごっこ、土曜日は昼からは川で泳ぎ、あけび取りに鉱山へ。」
当時の子供達の様子が非常に生き生きと、そして感動的に書かれている。同時にここでの生活のヒントが垣間見える。立里には当時、銅を採掘する立里鉱山があり、そのために学校もそれなりの児童数を有していた。



廃村寸前の状態になってしまった立里であるが、最盛期である1960年代にはそれなりの人口、児童数が保たれていたようだ。その理由は鉱山。近隣で銅等が採掘されていた事もあって、廃校となった中津川小学校含め隆盛を極めた時期もあったようだ。しかしその後山村人口の慢性的な低下に加え、閉山が重なり人口は減り続け立里小学校は1980年代に閉校となった。
静まり返った校庭は日当りも良い。前回とは違った穏やかな春の日差しを浴び校舎石段に腰掛けていると突然頭上で大音量のチャイムが鳴り響き、驚きのあまり思わず飛び上がってしまった。
振り返ると校舎軒下に設置された防災無線スピーカは生きていたようで野迫川村で本日行われる防災訓練を告げる案内が集落内に響き渡るが聞き取る住民はいるのだろうか。
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再び立里を探索。集落には相変わらず人の気配はない。つい数年前まで人が住んでいたのではと感じさせられる手入れが行き届いた民家もあるものの、実際にはほとんどが空き家のようだ。屋根や壁が崩れて落ちた廃屋も多く、仮に住民がいたとしても1〜2世帯ほどだろう。



集落の外れには索道らしき鉄塔があった。鉄塔から伸びるワイヤロープを目で追って行くと谷間へと消えている。現在は使われている様子はないがかつては眼下を走る県道と標高差400mをもって接続され、木材搬出や生活物資の搬入に利用されていたと思われる。交通困難な紀伊山地においては空中を行き来するこのような物資運搬用の索道は決して珍しいものではなく、かつて近隣には全長20kmにも及ぶ長大索道も存在した。

【追記】
立里からふもとへと伸びる物資運搬用の索道ワイヤロープの行き先は数年後に判明した。
遙か眼下を流れる池津川に架かる朽ちたトラス橋、池津川橋[上記地図]。現在は通行止めとなった封鎖された橋の袂に草に埋もれた錆び付いた荷積場を見つけた。


そこから伸びるケーブルは見上げるような高さの斜面へと吸い込まれていった。その標高差400mあまり。池津川上流域は渓谷のような澄み切った清流となっており、立里小学校の黒板に残された川遊びとはこの川をさすのではないか。まさか索道で人も運搬していたとは思われないので、当時の人たちの健脚ぶりには驚かされる。
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索道脇から杉並木へと続く人道を下ってみる。しばらくの間は緩やかだった道も次第に急傾斜に。実際に地形図にも人道を示す現す破線表記がなされているがそれがこの小道だろう。集落に車を残したまま谷底まで下る訳にもいかないので途中で引き返した。
山道は谷底へ下った後、池津川をどのように渡り県道と接続されていたのか。実はgooglemapで池津川流域を調べると県道脇に「吊り橋跡」といった文字が表示される。現在は崩落している模様だが、かつて立里住民によって利用されていた吊り橋なのだろう。地図上では隔絶されていた立里も人道によってひっそりと下界との繋がりが保たれていたのだ。

一方、立里集落と野迫川中心部を結ぶ交通においては尾根伝いに続く人道レベルの道はあったと思われるが現在の車道が開通したのは1977年のこと。少し以前に撮影された航空写真にも車道らしきものは見当たらず近年まで車の乗り入れができなかったとは驚きだ。
車道完成以前はこの山道と吊り橋が集落と下界との繋がりを保つ手段だった。その後時代を経て索道が設置され資材運搬は機械化されていったと思われる。
それにしてもこれだけの標高差を徒歩で行き来するとは相当な苦労があっただろう。しかしそれは現在の観点からであって、以前三遠南信にあるよく似た山岳集落においても、車道完成以前は通学、買い物、あるいは川遊びのために何の疑問も抱かず日常的に数百メートルを登り下りしてたという話を老人から聞いたことがあり、集落で生まれ育った人にとっては当たり前のことだったのかもしれない。

奈良県野迫川村に属する立里。しかし冬期通行困難となる野迫川中心部方面と比べ、主要道168号に繋がる大塔村方面の利便性を感じてしまう。野迫川村に所属しながらも車道完成以前においては隣接する大塔村との関係がより深かったのかもしれない。このあたりの話を住民の方から伺いたいものだが静まりかえる集落には相変わらず人の気配ゼロ。
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実は近年、尾根沿いの林道上垣内立里線と谷底の県道734号を直接繋げようとした痕跡が道路脇に残されている。集落からしばらく野迫川方面へと戻ったあたりに立里線から分岐し、谷底へと下る廃道のような車道がある(上記地図の破線部分)。空撮で確認すると谷底には池津川を渡る橋が造られ両者は上下から接合を目指していたようだ。しかし現在は工事も中断、未成のまま放棄されているように見える。道の建設、維持費と立里の人口バランスを考え道路建設は早急だと判断されたのかもしれない。
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車を停めていた空き地へ戻ると先ほどまで横にあったはずの軽トラがなくなっていた。立里住民のものかは不明だが地元の方からこの地域に関する話を聞くチャンスを逃してしまった。
唯一のアクセス路は立里集落で行き止まりとなっているため、集落を発つと同じルートをひたすら戻る必要がある。経験済みとはいえ予想以上に時間と手間がかかってしまい、県道を下り廃吊り橋を訪れる予定を消化する事ができなかった。それでも10年来の懸案だった立里再訪がようやく解消できたので今回はまあ良しとするか。
[了]
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