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●2019年12月某日/三県境、瀞峡マニアック地帯

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三つの県境が複雑に入り組む紀伊半島最深部にある瀞峡(どろきょう)。
北山川が流れる谷底に奇岩が乱立する古くからの景勝地であるものの
現在は閑散とし、どこか寂れた雰囲気が漂う場所でもある。
その川辺に建つ巨大な木造建造物、それがかつての瀞ホテル跡。
長らく封鎖されていた瀞ホテルだったが数年前一部営業を再開した。
営業時間のタイミングが合わず、逃し続けた瀞ホテル、
2019年冬、四度目の訪問にしてついに幻の内部に足を踏み入れることができた。
瀞峡周辺の山中に点在するマニアックなスポット巡りも併せて掲載。


photo:Canon eos7d 15-85mm


酷道とも評される難路が続き長らく「陸の孤島」と言われ続けた瀞峡周辺、しかし近年急速に道路整備が進み、特にトンネルを贅沢に使用した高規格の奥瀞道路開通の結果、割と気軽に訪れることができるようになった。

気軽と書いたものの、それでもかなりの時間を要し午後現地に到着。奈良、三重、そして飛地となった和歌山、三つの県境が複雑に交わる紀伊半島最深部の谷底。そんな山間部を流れる熊野川の支流、北山川が作りだした奇岩が連なる景勝地が瀞峡(どろきょう)だ。とは言っても瀞峡のメインどころは川を行き来する観光船でしか見られないため車でここを訪れる人は少なく、また土産物屋のような施設もないためか、いつ訪れても駐車場界隈は閑散としている。

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アクセスの難易度、さらには観光客を真っ先に出迎える瀞峡駐車場正面にそびえる廃墟の存在も相まって一般観光客には少し敷居が高い観光地だ。
ちなみに廃墟となった木造の建物は旧瀞郵便局跡。訪れる度に朽ちていく。その真横に建つ現役の瀞郵便局建屋の朽ち具合もなかなかのもの。おそるおそるカードを挿入した古びたATMは見かけと裏腹にしっかり起動した。

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瀞峡廃墟1912dorokyouruins2.jpg

駐車場から徒歩1分、行く手は切り立った断崖によって阻まれる。眼下には底知れぬ深さを秘めた深い緑色の北山川が蕩々と流れている。現在地は奈良県、対岸が三重県、そして右手が和歌山県、三つの県境が交わる「三県境」と呼ばれる場所。説明下手なので下記の地図を適当に書いてみたが奈良、三重、そして和歌山の飛び地が、瀞峡と蛇行する北山川に沿ってパズルのように複雑に組み合わさっていることがわかる。

三県境の地図1912dorokyumap02.jpg

最近は田んぼにある「栃木・群馬・埼玉の三県境」が日本唯一の三県境として売り出しているが、よく読むと「歩いて行ける!」という枕詞が必ず付随されている。なるほどこちらの三県境は徒歩ではたどり着けない川の上、さらにご覧のような秘境ということもあって今後も知られていくことはないだろう。



この断崖に張り付くように建つ古びた瓦屋根の和風建築、それが瀞ホテル。城郭のようにも見える巨大な木造建物はいつ訪れても扉は閉じられたままだった。

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しかしこの見慣れた風景に今回は変化が。ホテル内部から人の気配が感じられる。2014年夏の初訪問から4度目。ついに営業中の瀞ホテルへ足を踏み入れることができた。 



ホテルと書いたものの石垣上に組まれた重厚な面構えの木造建築はまるで旅館。そう、このホテル、もともとは眼下を流れる川を行き来する筏師の宿として大正時代に開業したもの。その後、旅館招仙閣、ホテルと変遷を経て廃業となったが数年前から一部を改修しカフェとして不定期ながら営業を続けている。

冷え込んだ真冬、ガラガラと扉を開けホテル内へ足を踏み入れるとストーブで温められた暖気が身体を包み込む。薄暗い室内奥から窓際を見ると日が当たるガラス窓が別世界のように見える。真冬だというのにストーブの熱と降り注ぐ日の光で窓辺の席は少し暑いほどだった。

瀞ホテル内部1912dorohotel013.jpg
瀞ホテル内部1912dorohotel02.jpg
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軽食を注文後、断って内部を探索。
ギシギシときしむ床、入り組んだ建物内、レトロな置物、全てのものに魅了された。

断崖のわずかなスペースに張り付くように建てられたホテルは増改築が行われたため見る角度によって階層が違って見える複雑な構造。一見三階建に見えるが川辺から見上げると実際には四階建となっているのがわかる。正確には「木造2階建一部3階建一部地階付」という形状らしい。下層部の上に上層部が乗った外観は望楼型と呼ばれる天守のようだ。

瀞ホテル1912dorohotel03.jpg
瀞ホテルからの風景1912dorohotel07.jpg

二階部分のほとんどは畳が敷き詰められたスペースが占めており板敷きのバルコニーが取り囲んでいる。細い木で組まれた手摺りはもたれかかるには少々心許ないが、日の当たるここから見下ろす瀞峡の光景はすばらしかった。

当サイトの趣旨から外れカフェブログになってしまうため掲載は控えるが渓谷を見下ろし冬の日射しを浴び食べた軽食も良い。それにしても今回、まさか瀞ホテルが再開しているとは思わずまともなレンズを駐車場の車内に置いてきてしまったのが悔やまれる。

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そして今回見たかったのがホテル本館から別館へのアクセス路。瀞ホテルには現在の本館以外に「別館」と呼ばれる建物が存在する。その立地がまた凄まじいのだ。

まずは一旦本館から出て外側から見た写真。岩場の端に立つと北山川の支流、葛川を挟んだ対岸の断崖にへばりつく懸け造りの建物が見える。この古びた建物が瀞ホテル別館。以前から書いているように難攻不落に見えるその姿はまるで鳥取県にある投入堂のようだ。

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瀞ホテル別館1912dorohotel06.jpg

営業時、瀞ホテル別館と現在自分が立つ瀞ホテル本館は人道用吊り橋で繋がれていた。しかし崩落した横板、垂れ下がるケーブルからわかるように現在吊り橋は渡ることはできない。
その原因は2011年、紀伊半島を襲った大水害。吊り橋は押し寄せた濁流が運ぶ流木によって破壊されてしまった。水位は吊り橋の高さ付近まで達したというから驚きだ。
瀞ホテル本館も被害を受けたがアクセス路を失った別館は廃墟のままとなっている。この時の大水害は紀伊半島全域に大きな傷跡を残し8年が経過した今回の徘徊に至っても未だに残る山体崩壊の生々しい爪痕を目の当たりにした。



別館へのルートは本館奥にあり、四度目にしてついに本館内から吊り橋を見ることができた。ガラス扉の隙間から対岸へと延びる廃吊り橋。営業時はここから往来が行われていたのだ。

瀞ホテル別館吊り橋1912dorohotel012.jpg
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上記写真は瀞ホテル内で購入した数枚のレトロなポストカード。そこには戦前に撮影されたと思われる着物姿の女性が健在だった吊り橋上に佇む姿の古写真が印刷されていた。

ちなみに吊り橋上が奈良県、和歌山県の県境となっている。このように同施設や建築物が県境をまたいだ場合の固定資産税納付先については稜線上の山小屋などで話題になるが、瀞ホテルにおいては奈良県側の本館と和歌山県側の別館は同じ建物と見るべきなのか、いや廃墟のようになっているので空き家と認定されるのか、興味深いところだ。

それにしてもこの吊り橋、食事や宿泊客の往来はともかく別館建設時の資材搬入路にしてはあまりに貧弱。他のアクセス路があるに違いないと以前、この周辺を探索したことがあった。
その結果、葛川上流の森の中に人目をはばかるかのように残されているもうひとつの吊り橋を見つけることができた。現在は封鎖されているが幅員は広いため別館建設時にはこちらの吊り橋が使用されのかもしれない。
対岸から撮られた下記写真からは瀞ホテルと瀞ホテル別館、そして吊り橋の位置関係がよくわかる。

瀞ホテル2101dorohotelphoto01.jpg

現在は閑散とし寂れた雰囲気が漂う瀞峡だが北山川にダム作られる以前はその豊富な水量を利用した林業搬出が盛んで木材を運ぶ筏師の休憩場所として隆盛を極めていた。また難所が続く陸路を凌ぐ交通手段として大正期には航空機のプロペラを使用したプロペラ船が投入され船とは言えその速度は陸路を圧倒した。
ホテル内にはこれらの資料が展示されており時間を忘れて読みふけってしまい思わぬ長居となってしまった。古写真からはかつては瀞ホテルと同規模の木造宿が断崖に数棟張り付いていたことがわかる。これらが現在も残されていたら圧巻の光景だっただろう。

ホテルは修復を行いながら全面復旧を目指しているようだがこれだけの規模の老朽化した木造建築を維持管理するだけでも大変なことだろう。いずれ瀞ホテルに宿泊できる日が訪れたらぜひ泊まりたい素晴らしい立地と建築だった。



ホテル以外にも廃校始めマニアックな場所が集中する瀞峡周辺。7年近くをかけ少しづつ消化しているが不便さに阻まれなかなか進まない。今回はそのうちのひとつ、空撮写真で見つけ数年前から気になっていた場所へ向かってみる。

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なぜこの場所が自分の気を引いたのか。それは山の頂に謎の建造物が映し出されていたからだ。map上には何も表示されないため使用されていない施設に違いない。現地までは急峻な九十九折りの道が続くことから瀞峡を見下ろす観光用展望台の跡なのでは、と推測しながら急坂を上り続ける。
視界が開け平坦な山の頂に駐車場と目的の建物が現れた。建物は予想に反して展望台ではなく何らかの施設らしき大きなもの。かなり以前に閉鎖されてらしく朽ち果てている。

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周囲には古いタイプのバンガローや錆び付いた遊具が点在。残された文字などから山上の一帯はかつてのキャンプ場だったと思われる。長年の個人的な謎は解明されたがキャンプ好きの自分も廃墟でキャンプを行おうとは思わない。



瀞峡を作り出す北山川は蛇行をくり返し熊野川に合流、熊野灘に流れ込んでいる。本来の目的はそんな蛇行部分の中州に残されているという廃村となった集落跡の探索だった。しかしそこへ至る道中の道が素晴らしかったので掲載。

広大な川原の中心にある中州。とは言っても川は干上がっているため簡単に辿り着くことができる。中州は我々がよく目にする灌木が立ち並ぶものではなく、鎮守の森を思わせる規模の大きなもの。現在はうっそうとした杉林で覆われているこの中州にかつて集落があったという。

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冬でも落葉することのない杉で覆われた薄暗い森。その足元を縦横無尽に走る人道跡は苔で覆われていた。
足を踏み出すのもはばかられてしまうほどの密度の濃い苔。真冬だとは思えない彩度の高い鮮やかな光景が続く。

嶋津の森1912moss02.jpg

このような場所は本来ならば緑が際立つ小雨の日に訪れたいもの。本日はよく乾燥した冬晴れの好天だったため射し込む木漏れ日で撮りづらい。 
不思議だったのは苔の道に一貫性がないこと。本来道というものは目的地同士を最短距離で繋げるという目的を持って設置されているはず。しかし苔の道はどこかに通じるというよりは木立の合間を迷路のように入り組み、場当たり的に敷かれているように思える。道迷いを楽しみながら石垣等の生活の痕跡が点在する森の苔路を右往左往。

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嶋津の森1912koke01.jpg

帰宅後例によって国土地理院サイトを開き過去の航空写真をチェック。すると現在は森に覆われた中州中央部は1970年代には切り開かれ耕作地となっていたことがわかった。わずか40年足らずで森に覆われてしまうことにも驚きだが、離村時、村人達が廃村となる家や畑の跡地に杉を植林するのはよくあったこと。今回徘徊した苔道は当時のあぜ道のようなものだったもかもしれない。



山々が続く紀伊半島南部紀和町付近。その光景からは想像もつかないがかつてその地下には総延長75kmに渡り地下坑道が網の目のように張り巡らされていた。それは一大鉱山として発展した紀州鉱山。

難路が続いた瀞峡付近を贅沢にバイパスする奥瀞道路が完成したことで瀞峡からわずか15分ほど、北山川沿いに当時鉱山で使用されていた鉄道の跡が残されている。閉山後、廃線となった軌道を利用し観光トロッコを走らせており2年前に行った紀伊半島徘徊の際、ものは試しにと車両に乗車したところ観光トロッコらしからぬ無骨な雰囲気に惹かれてしまった。

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谷間にある発着所は日の光は届かず冷え切っていた。そんな空間に複雑に交差するレールが敷き詰められている。現在は広大な空き地となっているこの谷間、当時の写真を見ると鉱山の建物が密集し車両が行き交う活気溢れる場所であったことが見て取れる。



紀州鉱山は1934年に近代鉱山として本格稼働したのを皮切りに掘削が進められ最盛期には坑道の総延長は75kmに達した。特徴的なのは鉱山鉄道ながら一般人も乗車可能だったこと。鉱車と共に人車も接続されており山が連なる山中で地元住民の足としても活躍した。閉山後、ほとんどの施設は解体されたが選鉱場跡の土台部分は少し離れた場所に現在も廃墟となって残っている。
ガタンという音と共に発車したトロッコは目の前に口を開ける漆黒の坑口へ吸い込まれた。

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紀州鉱山トロッコ1912kisyukouzan03.jpg
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全長1kmほどのルートは一部の明かり取り区間を除き坑道として使用されていたトンネル内を走るため外部の風景はほぼゼロ。眺望を期待する観光客にはお勧めできないが窮屈な車両、激しい揺れ、騒音、隙間風、そんな乗り心地の悪さも併せ自分のような鉱山マニアにはぴったりの場所。

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坑道を抜けた先に広がる空間もかつての停車場跡。現在は温泉施設となっており2年ぶりの湯で冷え切った身体が生き返る。温泉にはなぜか兵庫県山中に残された明延鉱山の資料が置かれていた。解体前の鉱山、選鉱所を始めとする豊富な写真が掲載されており懐かしさのあまり読みふけってしまった。



今回徘徊した複数箇所のうち、掲載したのは瀞ホテル内部、謎の廃墟、中州の廃村、鉱山鉄道の計4カ所。もちろんこれ以外にも紀伊半島各所で探索予定があり翌日、そのうちの一カ所を徒歩で目指すべく目的地付近へ到着したものの往復に費やす時間もなく結局現地を目視で偵察したのみ。
このように予定地消化は着々と進みつつあるものの、紀伊半島の広大さ、同時に新しい予定地を「発見」してしまうため2013年冬から始まった紀伊半島攻略は遅々として進まず・・・

[了]

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