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●2020年4月某日/消滅した空間.その1.大阪、軍艦アパート解体への記録[1998〜2004]

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様々な徘徊予定も中止となり、近隣以外遠出をすることもなく
データ整理を行っていた4月上旬、Mac内より発掘された懐かしい写真。
それがかつて大阪某所に存在した軍艦アパートと呼ばれる戦前に建てられた集合住宅群の写真データ。
異彩を放つその外観に圧倒され、当時定期的に通っていたが解体されて現在は存在しない。
以前消滅した軍艦アパートを記録したサイトを作ろうとしたことがあり
半分近くが完成していたが生活現場を掲載してもよいものかとの躊躇もあり放置されていた。
しかし解体から14年が経過したこと、そして今回写真、テキストデータなどが発掘されたため
それら残骸をかき集め記憶をたどり、消滅した空間.その1として掲載。
いずれ別の場所をその2として掲載予定。


カメラ/MINOLTA X700 レンズ/28mm、50mm、135mm フィルム/Kodak DINA100〜400

※10数年前に運営していたサイトから引っ張り出した文章に多少加筆しただけなので 
 キャプションなどに記憶違いや間違いがあるかもしれません。
※当時リバーサルフィルムから簡易スキャナーで取り込みしデータ化した写真です。
 腕のせいも相まって画質が悪いことを予めお断りしておきます。



自分が軍艦アパートなる建物群の存在を知ったのはまったくの偶然だった。
1998年頃、MacG3を購入しようと大阪日本橋にある家電街へ友人と車で出かけたときのこと。今でこそ梅田ヨドバシに動線を奪われ衰退した家電街だが当時の大阪では家電の購入ならば日本橋というのが常識だった。日本橋の西側は雑居ビルやアパートが密集する雑然とした街並みが続いている。路駐スポットを探し車で裏路地を右往左往している最中、迷い込んだ時間が止まったような空間。

その路地は直線だった。しかし他の路地とは違う。道の両側に覆い被さるように建つ崩れ落ちそうな3階建鉄筋コンクリート建築。頭上に思い思いに突き出た構造物。狭い空を覆う網の目のような電線。崩れ落ちるように壁面にもたれかかるトタン屋根の木造建物。それらがひとつの巨大集合体を形作っている。このような身勝手な建築が許されるものなのだろうか。
その数年前に訪れた長崎県の軍艦島を凝縮したかのような謎の空間。荒廃した雰囲気から、まさか住人がいるとは思わず第一印象は失礼ながらすごい廃墟を見つけてしまった!だった。
そんな光景に圧倒された二人は思わず車から下りるとフィルムカメラで何枚かシャッターを切った。それが初めて目にした軍艦アパートのうち一棟、南日東住宅の姿だった。当時はネット環境もなかったため軍艦アパートという俗称はもちろん知らず、少し前まで香港に存在した過密マンションになぞらえ我々は「日本橋九龍城」と勝手に名付けた。



雑居ビルやマンション、アパートが建ち並ぶ町並みに、黒ずんだその建物群は突如その姿を見せる。周囲の街並みと一線を画す異質な存在感を忘れられず、この日本橋九龍城に定期的に通うようになった。そしてその怪しい外観とは裏腹に歴史的な価値を持った軍艦アパートと呼ばれる建築物であることを知ったのはさらに数年後のことである。

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2020年4月現在、「軍艦アパート」で検索を行うと引っかかるWikipediaには「大阪市営下寺住宅」についてのみ触れられているが、これは少々誤解を招きかねない表現かもしれない。実際には下寺住宅以外にも軍艦アパートと呼ばれる住宅群は半径300mほどの範囲内に三棟存在した。掲載順に「南日東住宅」「北日東住宅」「下寺住宅」である。これら三つのアパートは一見似通っているようでそれぞれ際立つ個性を持ったそして歴史ある建築物だった。

●縦長の区画にアパート、長屋が混在する南日東住宅(1933年建設〜2001年解体)
●デザインの意匠が印象的な北日東住宅(1932年建設〜2002解体)
●高い知名度を持つ最後に解体された下寺住宅(1930年建設〜2006解体)

軍艦アパートの地図2005gapamap.jpg

それぞれの軍艦アパートの配置を示した地図。ちなみに地図東端で道路が途切れているのは手抜きではない。ここは上町台地と呼ばれる高台と平地の境目。大阪湾から続いた平地は下寺住宅東側で終わり段丘のような地形となっているため道が途切れているのだ。
空撮写真とストリートビューを使い、軍艦アパート跡地の様子を調べてみると2020年現在、軍艦アパート跡地はマンション、スーパー、公園へと生まれ変わっていた。しかし区画割や道路状況などからその痕跡を読み取ることができる。



後に軍艦アパートと呼ばれることになる鉄筋コンクリート3階建集合住宅群が地上に登場したのは1930年代、昭和初期にあたる。その当時、この地区は長屋など、老朽化した木造平屋住宅の過密地帯であり、軍艦アパート建設はそれらを一気に集約し、改善しようと言う都市計画との要素も併せ持つ意欲的なものだった。また生活面においても上下水道、ガス、ダストシュートを始めとする新しい生活スタイルを追求した実験的な軍艦アパートは当時非常に革新的なものでもあった。
軍艦アパート2004gapa02.jpg

「軍艦アパート」という名称はもちろん正式なものではなく、端島という名前を持った島がいつの間にか「軍艦島」と呼ばれるようになったように人々の目を引くその特異な外観から周囲の住民達から次第に呼ばれるようになったと思われる。現在でこそ周囲の高層建築に埋もれてはいるが、竣工当時、下町にそびえる重量感あふれる巨大建築は海軍が持つ「軍艦」のように憧れと共に近付きがたい畏怖の対象だったのかもしれない。
軍艦アパート地図20005gunapamap02.jpg

軍艦アパートの最も大きな魅力は個々のアパートが連結することで作り上げる空間だろう。コンクリートの住居で外周を覆い、外からはその気配を感じさせない中庭に面して開かれている。一見排他的にも見えるこの構造、アパートの住民だけが得ることのできるのプライベート感的特権を意識したものだろうか。
同時に外部と一線を画す要塞のようなこの構造は村を守るため民家の壁を城壁にした少数民族の円形集合住宅を彷彿とさせるなと感じたことを思い出す。
軍艦アパート2004gapa04.jpg
軍艦アパート2004gapa05.jpg
もうひとつの魅力、それは建築当時の崇高なコンセプトは次第に忘れ去られ、利便性、居住性を求め住人が独自に行っていった増改築の歴史の痕跡だ。
軍艦アパートの住民達は家族の増加ともに手狭になった部屋を拡げるため奇抜なアイデアを思いついた。それが現在では考えられない部屋の外への増築だ。外壁から外へと突き出た出窓のような巨大な箱。これらが出し家と呼ばれる拡張された部屋の箱。思い思いに通り空中へ飛び出している部屋は頼りのない支柱で支えられ無骨な外観をより複雑に見せている。またアパート屋上も、物置小屋、家庭菜園と余すことなく高度利用され軍艦アパートは乗員達の手によって好き勝手に「改造」されていった。

それら独自の進化に加え、時が作り出す経年劣化、大阪といった独特の文化というスパイスが追加されることによって70年の年月を経て独特の空間が作り出されていった。このあたりを念頭に置いて見ていただけるとうれしいです。


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軍艦アパート/南日東住宅2000nannitotop.jpg
[軍艦アパート]南日東住宅の記録

三棟内で最も早い2001年に解体されてしまったのが南日東住宅だ。ここは自分が最初に知った軍艦アパートでもある。
三棟のアパート郡の中で下寺住宅と並ぶ規模を持つ。またアパート本体だけではなく寄生するように外壁に張り付く木造長家も飲み込んで一体化した複雑な構造が興味深い。はじめてここを訪れた1998年にはすでに路上駐車の格好のスポットになっておりアパート周辺は路駐された車、あるいは廃車となった車が放置され、荒廃した雰囲気を増長させていた。

[2002年頃やっていた当時のwebサイトより抜粋した文章を下記に掲載、書き方が恥ずかしい]
※撮りためた写真のほとんどは紛失してしまい、データ化されていたもの数枚を時系列を無視して掲載。

南日東住宅が突然閉鎖されたのは2000年夏のことであった。もっとも唐突と言っても部外者の私にとってのことであり住民達にはとうの昔に通知されており新しい住居となるマンションもすでに近隣で建設中であった。夏の午後、焼けつくような西日を浴び、南日東住宅に近付くと窓という窓はベニヤ板で塞がれている。近づくと閉鎖を告知する大阪市の小さな張り紙があった。
ところが南日東住宅は閉鎖されたものの即座に解体がはじめるわけでもなくそのまま放置され続け、外観だけ見ればいつもと変わらない光景が続いていた。やがてどこで聞きつけたかホームレスが集まり彼らは格好の寝場所を見つけたかのように南日東住宅の壁にブルーシートと段ボールをくくりつけ自分のスペースを主張し始めた。彩度のない壁面と青いブルーシートのコントラストが不思議な対比を見せていた。私自身多忙さもあって毎週のように訪れるわけにもいかなかったが、この様子からしばらく解体されることはないと安心してしまっていたのも事実であった。

南日東住宅202006nannito01.jpg

事態が急変したのは2001年の秋のことだった。その一週間ほど前、遠く離れたアメリカでは同時多発テロが発生し、マスコミは騒然としていたが大阪ミナミはいつもと変わらず人の波。自転車で南日東住宅へ向かうと銀色のバリゲートの向こうに見えるはずのくすんだアパートが見えなかった。胸騒ぎを覚えつつ近づくと道路も封鎖され瓦礫を満載したトラックが出入りしていた。ついに南日東住宅は解体されたのだ。
バリゲートは3m近くもある大げさで厳重なもので内部の様子はまったく伺い知れないため初老の警備員に頼み込み解体現場中を撮らせてもらう。

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大きな銀色の扉を開けてもらうとアパートと長屋がひしめいていたはずの場所は広大な更地が広がっていた。正確に言えば奥に砕かれた残骸が残ってはいたがそれはもうアパートとはいえないような代物であった。それでも気を取り直し写真を撮っていると警備員が「もうちょっと早ければねえ」と慰めてくれたのが印象的だった。

2020年/現在、南日東住宅の跡地はマンションとなっている



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[軍艦アパート]北日東住宅の記録

南日東住宅と下寺住宅の中間に位置するのが北日東住宅である。実はしばらくの間、この存在に気がつかず、北日東住宅に出会ったのは数度目の軍艦アパート巡りの最中であった。自転車で路地を走っていると偶然、南日東住宅に似た建物に遭遇、意匠の違いから別のアパートだと気がついた顛末があった。外出前にweb上で全ての情報を集めることができる現在ならばこんなこともないだろう。
北日東住宅については整頓されたポジフィルムが残っているため突如自分の前に現れ消えていった南日東住宅に比べ時系列で掲載することができる。主なものを抜粋して紹介。


2001年5月/出会い
写真を遡ると北日東住宅の姿が最初に自分の一眼レフカメラのフィルムに収められたのは2001年5月。もちろんデジタルカメラのように撮影日がデータとして残されている訳ではないので、スリーブ片隅に書かれたメモによるもの。
雑居ビルと阪神高速の高架の挟まれた縦長のこの土地はお世辞にも好立地とはいえず、ゆえに敷地も狭かった。薄暗い廊下を抜け屋上に出ると同じ高さを走る阪神高速から防音壁越しに車の通過音がひっきりなしに響き渡る。

軍艦アパート200105kita01.jpg


一方で壁面の特徴的な丸窓に代表されるよう、意匠へのこだわりが最も感じられた建物でもあった。
もしかすると軍艦アパートという名称の由来は舷窓を思わせる特徴ある丸窓からも来ているのかもしれない。この丸窓の内側は共同の水場があったように記憶している。

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軍艦アパート建設時の計画では住民がくつろぐ風通しの良い広場となるはずだったゆとりを持った中庭。しかしそのほとんどは後ほど住民が建て増したと思われる錆び付いたバラックで占められている。自転車やバイクが停められているものの人の気配がまるで感じられない不思議な空間には木々の葉が日射しを遮る影を落としていた。



軍艦アパート200202gunkitatop5.jpg
2002年2月/退去へ
軍艦アパートを訪れる機会は訪れず、次に北日東住宅を訪れたのは冬の某日。外壁は薄ら寒い灰色の空と同化しているようだ。この数ヶ月の間に住民の退去が行われたようで部屋の多くはベニヤ板で塞がれ無人となっているようだった。

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各部屋の入口や窓は封鎖されているがこの時点でも中庭や建物自体への出入りは制限されていなかった。まだ残っている住民がいるのか、放置されているものなのか、中庭は相変わらず多くの自転車が無造作に置かれている。関係ないが下記写真の左下の自転車は当時、自分が乗っていたものだ。この少し後に盗難に遭い行方知れずとなった。

軍艦アパート200202kita01.jpg

中庭を覆っていた緑の木々が枯れ果てたことでバラックの錆がむき出しになり侘しさを醸し出す。
やがて雲の切れ間から弱々しい西日がアパートへと射し込み薄暗い廊下が浮かび上がった。

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軍艦アパート200205gunkitatop5.jpg
2002年5月/封鎖
相変わらず人の気配が無く静まり返るいつもの路地の角をまがると高いバリゲートで周囲を囲まれた北日東住宅の姿があった。北日東住宅はついに封鎖された。貼り巡られた高いバリゲートによって一寸の隙もなく封鎖された北日東住宅は中を覗き込むことすらできない。塀越しに中庭の大木の葉がわずかに見える。

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間もなく建物の解体が始まり三棟のうちニ棟の軍艦アパートが姿を消すことになる。北日東住宅の完全な姿を見るのもおそらく今日で最後だろう。



軍艦アパート200206gunkitatop5.jpg
2002年6月/封鎖
季節は巡り、6月となりこの街でもサッカーワールドカップがはじまった。道頓堀の熱狂に参加したりしているうちに軍艦アパートのことは頭からすっかり消え去ってしまった。日本そして、大阪が喧噪に包まれた2002年6月の某日、予選も一巡し、ふと我に返った私は北日東住宅を訪れた。

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意外なことにアパートの解体工事はまだ始まってはいなかった。静まりかえったこの空間に立つと同じ大阪市内でワールドカップの試合が行われたばかりなのが嘘のように思えた。



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2002年10月/消滅
初めての訪問から五年。北日東住宅の跡地は予想通り更地となっていた。重量感を持ったコンクリートの塊が埋めていた空間はぽっかりと空き、剥き出しの地べたが日射しを反射していた。アパートが消滅した空間は思いのほか狭かった。この空間で数十年間、どれだけの人間が暮らし、どのような生活があったのだろうか。

2020年/現在、北日東住宅の跡地はマンション、公園となっている。


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軍艦アパート下寺住宅200402gunsimotop.jpg
[軍艦アパート]下寺住宅の記録
軍艦アパートの代名詞と言えるのが最後に紹介する下寺住宅だろう。軍艦アパートが南から順に解体されて行く中で最後まで残されていたため、それだけ人目に付く機会が多く、デジカメや携帯カメラの普及期と重なったため多くのカメラに収められたはずだ。

2002年2月/俯瞰
下寺住宅は他の二つとは違い正方形の敷地内にコの字型の建物が重なりあった形状となっている。そのため俯瞰することで初めてその構造が理解できる。狭いスペースも有効活用するため屋上に密集する小屋、張り出したトタン屋根も相まってより複雑に見える。

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上記右下の写真、アパート壁面からでこぼこの箱のようなものが思い思いに空中に飛び出しているのがわかると思う。これが軍艦アパートの特徴のひとつである「出し家」と呼ばれるもの。
「出し家」とは住民が部屋を拡張するために独自に改造を行った増築部分。「出し家」の内部は寝室だったり、子供部屋だったりと用途は様々だが中には風呂場として使われた例もあると言う。近隣には出し家専門の大工もいたようだが、頼りのない木材に支えられた見るからに不安定な構造、ここで生活する住人は不安は感じなかったのだろうか。



軍艦アパート下寺住宅200206gunsimotop.jpg
2002年6月/中庭 
この時期、他の二つの軍艦アパートは既に解体封鎖されたが、干された布団や洗濯物からもわかるように下寺住宅ではまだ生活が営まれている。そのため廃墟状態となっていた他の軍艦アパートとは違い挨拶や会話を交わす程度だがわずかながら住民の方と交流ができた棟だった。

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その中でも下寺住宅の1階にあった中華料理店は何度か食事に通った店。店主から軍艦アパートの歴史や生活のエピソードなど貴重なお話を伺うことができた。この中華店、検索してみるとアパート解体後、近隣に移転し現在も営業が行われているようだ。

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おそらく竣工当時は白に近い明るい外壁だったと思われる軍艦アパート。しかし長い年月を経て軍艦アパートと聞いて頭に浮かぶ印象は黒ずんだ灰色、そして錆色。そんな色彩を失った軍艦アパートが彩度を増す季節が夏場だ。緑の葉を茂らせる木、そして住民が植えたと思われる植物が花を咲かせる。そんな中で下寺住宅では中庭の中央には社があり赤く塗られた鳥居が妙に鮮やかな色彩を放っていた。



これらの写真、リバーサルフィルムらしいラチチュードの狭さが懐かしい。今のデジカメと違い影、光、明暗がくっきり。中には露出に失敗して真っ黒になったコマもあり、当時のマニュアルカメラの面倒臭さを思い出す。
軍艦アパートに通い始めた頃は、フィルム一眼レフ(X700)と35mmリバーサルフィルム(ポジフィルム)KodakDYNA100〜400で撮っていたが末期にはデジカメ写真も混在するようになった。とはいえ当時のデジカメは解像度において35mmリバーサルフィルムには勝てず、データ内にはデジカメの写真も混在しているがとても載せられたようなものではない。掲載してあるフィルム写真の質が悪いのはボロいフィルムスキャナーと腕の悪いため。



軍艦アパート下寺住宅2004gunsimotop.jpg
2004年7月/最後の軍艦アパート
あれから2年あまり。驚くことに下寺住宅はまだ現存していた。
日暮れ間近の大阪の街を自転車で走る。長かった夏の一日も終わりが近づき、建物は傾いた夏の日射しがビル群の影を落とし下寺住宅には光と影との境界線となっていた。次第に薄暮に包まれる住宅内を徘徊する。

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下寺住宅からは人の気配は消え去り、板で塞がれた窓や扉が目立つようになった。まだわずかながら残っている住民がいるとはいえ放置された気配を察したのか、壁面の一部はグラフィティアーティストの格好のキャンバスにされ、あるいはゴミ捨て場にされアパートは一気に荒れ始めた。

軍艦アパート200407shimodeta003.jpg
軍艦アパート下寺住宅200407shimodeta002.jpg

やがて日が落ち、廊下には薄暗い蛍光灯が灯った。



上記の写真が自分が記録した軍艦アパート最後の写真となる。その後解体されたとの報道を聞いたのが2年後の2006年のこと。下寺住宅解体の現場には立ち会うことができなかった。

2020年/現在、下寺住宅の跡地はスーパーとマンションとなっている。



建設当時、当時最高水準の建設と絶賛を浴びたながら70年後にはビルやマンションなどの高層建築に埋もれ忘れられていった軍艦アパート。むろんどのような最新鋭の建築物も時代の流れと共に陳腐化していくものだが、竣工時と解体時の落差がここまで大きいのも珍しいかもしれない。
懐かしい写真や書きかけの文章を発掘してしまい今回の記事となった「消滅した空間」編。機会があれば大阪とは別の場所にある失われた空間を紹介したい。

[了]

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