●2023年4月某日/紀伊半島、失われ行く痕跡を求めて[後編]。野迫川秘境地帯。
- 2023/07/04 22:22
- Category: 廃校

三重、和歌山、奈良を跨ぐ紀伊半島山岳地帯徘徊。
南紀に点在する廃校やマニアックな地点を巡り続け、昨夜は山の中で車中泊。
最終日は秘境とも言われる奈良県野迫川村、最果ての尾根の先端に張り付く山岳集落に到着した。
この集落はその特異な立地が自分の興味を引き、以前から定期的に訪れている場所。→LINK
前回と比べどこか変化はあるのだろうか
[前回の記事]
※本記事は訪問時のものです。現在の状況は異なっている可能性もあります。
最深の地、奈良県野迫川村へ。人口わずか350人、村の総面積のほぼ全てを山岳地帯が占める秘境の地。

その野迫川村の果て、尾根上の林道を走り続けた先に桃源郷のような集落、立里(たてり)がある。
標高750m、杉林の人工林が切り開かれた山上の斜面に10数棟の民家が張り付いている。建物の多くは荒れてはいるが、現在もわずかながら居住者がおり廃村ではない。

集落中央に残されてた廃校となった立里小学校の木造校舎と小さな校庭。
窓が破れているため、外からでも当時を偲ばせる教室の姿や当時の学校生活の雰囲気を間近に感じることができる。



窓から撮った南面の廊下。プレートを見ると低学年と高学年に分かれ授業が行われていたようだ。壁面には当時の絵画が剥がれることないまま張られており学校生活を垣間見ることが出来る。かつて近辺には鉱山があり、最盛期には多くの子ども達がここで学んでいた。
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残されたままのピアノも窓から見える。以前被せられていた赤いピアノカバーが消え去っており、この廃校を初めて訪れて以降、変わらないように見える光景にもわずかながら変化が見られる。しかし卒業生が書き込んだと思われる黒板の印象的な文章だけは消させることもなく残されたまま。鬼ごっこ、川遊びなど当時の子ども達の生き生きとした様子が目に浮かぶ。




林道の行き止まり、果てにある立里の立地は壮絶だ。周辺に幹線道路、他の集落は一切存在せず、下界から隔絶された尾根の果てに位置している。
急峻な谷底には最も近い幹線道路といえる県道が走るが2023年現在、両者を直接行き来する手段は失われている。地図で初めて立里の存在を知った際にはその特殊な立地から「ここには何か隠された秘密があるに違いない」と無邪気に感じたものだ。立里集落の維持やアクセス路に関しては後半に様々な痕跡脇を通過したため後述する。
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人の気配のない校庭の石段に腰掛け、昨夜Aコープで買って置いたパンをかじる。日当たりも良く静まりかえる集落の居心地の良さに今回もつい長居してしまった。

続いて山上の現在地から谷底を目指す。見渡す限り人工物が一切見当たらない紀伊山地の山々。唯一目に入る人工物は県道734号。目的地は上記写真の○印をつけた場所にある池津川橋。季節柄見づらいが、木々が枯れる冬場ならばここから特徴的な橋のトラスを俯瞰できる。両者を直接行き来する手段はなく、○印まで辿り着くには20kmを越える山道の大迂回を強いられる。
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一旦野迫川中心地まで林道を延々と逆戻り、ここから分岐する県道734号を下っていく。県道と言っても昨日走った国道425号からも察する通り、小さな落石や荒れた路面が続く離合困難な谷底の山道。鹿の群れも現れる。

ここ数日間、紀伊半島の悪路、林道を走り回ったため、その程度ならば何とも思わないがカーブを曲がった瞬間、目に飛び込んだ杉の倒木が行く手を塞ぐ光景にはさすがに驚かされた。周囲にはホコリや花粉が舞い上がっているため杉は倒れたばかりに見える。未だトラウマとなっている幼少期読んだ児童文学ズッコケ山賊修行中[→LINK]冒頭で登場する土蜘蛛族の襲撃のシーンと同じ状況。
倒木は道を塞ぎ迂回スペースはゼロ、再び野迫川山上に戻り別ルートへ迂回すれば半日近いロスとなる。車から降りると車高をチェック、山側から倒れ込んだ杉は大木と言うほどでもなく、谷底側に向かい直径を細めているため先端付近ならば乗り越えられるかもしれない。失敗すれば車体裏に幹や枝や引っかかり動けなくなる。まずは力の限り倒木を押し込み枝を折り、車輪を谷底ギリギリに移動、四駆をフルに使い、同時に慎重に乗り越えた。


ひたすら続く県道734号。道中通過した谷間の小集落、池津川。県道は20棟ほどの民家の中央を通過している。こちらは立里とは違い深い谷底、また洗濯物等からも生活の気配を感じることができる。ここにも廃校となった小学校校舎が残されている。




池津川小学校の立地は少し変わっており、小さな丘の上にこじんまりとした平屋の校舎がぴったりとおさまっている。急勾配の階段を登り、ガラス越しに室内を覗くと生徒が書いた絵画がわずかに見えた。このような子どもの作品も、先ほどの黒板文字を含め当時の生活をうかがい知る貴重な資料だったりする。


意外だったのは小さな校舎にそぐわない校庭の広さ。山岳集落、斜面集落、谷底集落で困難なのが平地の確保。貴重な平地のほとんどは農地〜居住区画の順に優先利用されており、そのような場所を訪れた際には車を停めるスペースにも難儀することが多いのだが、ここは校庭が広大で駐車場所には困ることはことはなかった。すぐ近くには木造校舎を思わせる建物が残されており、こちらは初期の学校だったのかもしれない。
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池津川を発つとここから15km区間、一棟の民家も現れない狭い山道が延々と続く。県道と並行して流れる池津川の川幅も広がり渓流から渓谷の様相へ。このあたりの川辺には鉱山施設跡や有名な廃村中津川がある。


現在地は数時間前まで滞在していた立里集落まで直線距離で600m、最短地点にあたる場所。山上の○印は先ほどこの場所を俯瞰して撮った林道立里線。しかし現在地と立里との間は池津川と500m近い標高差、そして絶望的な距離で隔てられており、ここからあの場所へ到達するには23kmの山道を延々と走り続ける必要がある。
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ここまで共に下ってきた池津川はまもなく川原桶川と合流する。2つの川の合流地点には下界と隔絶されたように見える立里のアクセスを偲ばせる様々な遺構が集中、非常に興味深いポイントでもあり、順を追って説明する。

●遺構その1 [廃吊り橋]

池津川に架けられた吊り橋。メインケーブルは維持されているが踏み板は崩落、廃吊り橋となっており現在は渡ることはできない。この廃吊り橋はかつて立里と県道とを直接結んだ人道であった。地理院地図に急勾配の人道が集落から吊り橋まで表記されていたため、以前しばらく下ったことがあったが痕跡は割と明瞭、吊り橋さえ生きていれば現在も徒歩でなら通行できそうなのだが。
●遺構その2 [未成路]未開通区間

廃吊り橋の近くには近年になって立里集落まで通じる林道と734号線を、上下から車道で直接接続しようと試みた痕跡も残されている。吹付法面を贅沢に使用した立派な道路なのだが、工事自体動きも見られず未成路のように感じる。特に規制もされていなかったので徒歩で少し偵察してみたがこの先は崩落しているようだった。それでも工事看板の占有期間が更新されていたため、放棄されたわけでもないのだろうか。
●遺構その3 [索道跡]

立里集落への物資運搬には索道(ロープウェイ)も使用されていた。県道脇の茂みの中、錆び付いた発着場から伸びるケーブルはまだ生きており、遙か山上の尾根へと消えていった。ちなみに山頂駅は現在もその姿を見ることができる。
このような索道は、山岳集落では特に珍しいものではなく、紀伊半島においては明治〜大正期における全盛期には索道会社が乱立、中には全長15kmを越える巨大索道もあった。これら索道群は道路網の整備と共に衰退、姿を消していったが、鉱山のあった立里の索道は割と近年まで使用されていたと思われる。
●遺構その4 [池津川橋]
新緑に包まれるトラス。合流地点でもっとも目立つ遺構は林道川原桶川線へと続く池津川橋。これがなぜ遺構なのか。それは現在、池津川橋は封鎖され渡ることができないからだ。


看板には「冬期の間通行止め」と書かれているが、この先に続く林道川原桶川線は崩落によって通行できない状態となっており、冬期以外も開通している姿を見たことはない。周辺でも山体崩壊が相次ぐ紀伊半島では、交通量皆無の林道まで正直手が回らず、復旧は後回しとなっているのが実情だろう。
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下記写真は立里集落付近から見下ろした現在地。川は池津川橋付近で流れが滞留、透明度の高い淵を作っており、初夏を思わせる気温に思わず泳ぎたくなってしまう。

数時間前、立里小学校の廃校の黒板に書かれた「土曜日は川で水遊び」との文章を読んだが、川とはここをを指すのだろうか。すると子ども達はこれだけの高低差を川遊びのために徒歩で往復していたことになり驚かされる。しかし以前別の山岳集落に住む老人から、子どもの頃は何の疑問も抱かず通学、遊びで日常的に数百mの高低差を往復していたと聞いたことがあり、これが山岳集落民のたくましさなどのだろう

このように集落は吊り橋、索道、車道と様々な手段で下界との接続を試みてきたが鉱山閉山後、人口は急減。今やアクセス路を新規に開拓する必要性もなくなり、放棄状態となっている。
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紀伊半島の深い山々を徘徊するうちに、次第に半島の暮らしぶりの輪郭がおぼろげながら掴めるようになってきた。そして紀伊半島には「川の道」「山の道」、二つの道があったのではないかと考えるようになった。
川の道。それは紀伊山地を蛇行する十津川、熊野川等などの大河沿いに点在する集落同士を繋いでいた谷底の街道。その後、街道上に国道が敷設され、現在は紀伊半島縦断のメインルートとなっている。
同時に紀伊半島では「山の道」も存在していた。それはこのサイト内でよく登場する下界から隔絶され孤立しているようにも見える山岳集落同士を繋いでいた人道。

立里を初めとする山岳集落を訪れると思わず頭に浮かぶのは、どうしてこの不便な場所にといった疑問。しかしその考えは「川の道」沿いに敷設された谷底の国道を車で走る現在からの観点であって、山岳集落同士は尾根づたいに結ばれた人道によって物資運搬・文化交流が行われ、住民はふもとに下ることなく、山上だけで暮らしが成り立っていたのでないか。例えば立里に車道が開通したのはなんと1970年代であり、それまでは徒歩で生活を維持していたのだ。特に紀伊山地においては古来より熊野信仰の参拝路という側面も併せ持っていたため、容易に受け入れられたのだろう。

モータリゼーションの発達に伴い高速道路のような高架橋やトンネルが作られ日々進化を遂げてきた紀伊半島の「川の道」。一方で山岳集落側にも車一台の通行がやっととは言え、下界とを繋ぐ車道が敷設されたことで、「山の道」は次第に失われていった。その後、山岳集落の無人化・廃村化や林業衰退によって、車道自体も目的を失いつつある。紀伊山地を網の目のように走るこのような車道、交通量もほとんどなく、いつまで整備が続けられるのだろうか。
注)上記イメージ図は理解しやすくするために描いた架空の地形図。特にどこの場所という訳でもないが強いて言えば紀伊半島中央部の十津川や野迫川辺りをモデルとしている。例によって勝手な自由研究のため確証は持てません。


再び、人気のない県道が川沿いに延々と続く。やがて谷間が広がり視界が広がり、目の前に巨大な崖が現れた。山体が山頂部分から大きく崩落している。ここは2011年の台風12号の豪雨がもたらした山体崩壊の跡地。雨を飲み込んだ山塊は山ごと崩壊、膨大な土砂は川と県道を埋めたてた。

同じ箇所を10年前に通過した際も復旧工事が行われていたが、あまりに巨大な崩落現場故か、見た目はほとんど変化がないように見え、治山の先は長そうだ。このように2011年豪雨災害の影響は大きく、紀伊半島では現在に至っても各所で爪痕を目にする。
延々と続いた山道も主要道168号線まであとわずか。野迫川村山上からここに至るまで数時間、一度たりとも対向車とすれ違うことはなかった。
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ダートとなっている県道を土埃まで巻き上げ走り、つい見えた。高架橋をフルに活用した山岳高規格道路国道168号。ここに合流さえすれば、落石や倒木の心配もなく、バイパス路のような快適な国道を走り順調に帰路につくのだ。168号合流まで残り1km。すると十津川の脇で大勢の警備員が行く手を塞いでいるのが見えた。またゴール直前で通行止めか?。昨夜の悪夢が蘇る。それともここは工事現場で立ち入ってはいけない場所だったのか?
警備員は皆、少し奇妙な、というよりも一瞬戸惑った表情をしながら、人気のない山の中から降りてきた埃まみれの我が車を見つめており、彼らに誘導されるがままに車を進めた。しばらく走ると対向車線は、何かを待ち続ける車やバイクが列をなし停止しており、渋滞のような様相となっていた。
「一体どこから現れたのか」といった表情で、走り抜ける我が車を不思議そうに見つめる停止したままの対向車のドライバー達。何人かは車から降り、警備員と会話をしており、それによって状況が理解できた。

紀伊半島を南北に走る国道168号線は、法面崩壊によって数日前から通行止めとなった。要とも言える主要道168号線を封鎖しておくわけにもいかず、平行する十津川の河原が緊急迂回路に指定された。とはいえ河原を走る仮設路のため、片側交互通行が行われており、多くの警備員が動員され河川敷への誘導・車列待機が行われていた。停止したままの車やバイクは開通をひたすら待ち続ける車列だったのだ。
自分は野迫川村の山中から人気のない県道を延々と下り、意図せず封鎖中の迂回路側面に飛び出てきたわけだ。
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まもなく国道に合流、広い幅員、緩やかなカーブ、トンネル。道の素晴らしさに感動しながら新緑の紀伊半島を後にした。紀伊半島徘徊三日間。その広大さとアクセスの不便さ故、いつくかの予定地を消化したものの、全てを回りきることは今回もできなかった。
[了]
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